現在、『真田丸』で描かれているのは、この大坂城を拠点に天下統一を成し遂げる直前の段階。駿府(すんぷ)城や浜松城を拠点に「東海一」と謳われた徳川家康(内野聖陽)が屈したため、残る反秀吉の大勢力といえば、小田原城を拠点に関東を領する北条氏政(高嶋政伸)と、米沢城を拠点に南東北を手中に収めた伊達政宗だけだ。「秀吉とすれば、まずは北条を攻める口実が何が何でも欲しいわけです。そこで“活躍”したのが、真田家なんです」(歴史作家)

 それまで歴史の表舞台に一切出ることのなかった、上州(群馬県)の小城、名胡桃(なぐるみ)城。真田家が領していたこの城を、突如、北条家が占領してしまうのだ。「秀吉からすれば、自分に臣従した真田家を守るという大義名分ができたわけです」(前同)

 当時の北条家の勢力は約240万石。東海以西の大名を傘下にした秀吉にかなうべくもないのだが、それでも決戦へと踏み切らせた理由が小田原城だった。この城は、北条家初代の早雲(そううん)が1500年頃に大改築して以降、天下に轟く堅城とされていた。総構(そうがま)えと呼ばれる、街ごと城壁ですっぽり覆い囲むという最先端の縄張りが堅固さを生み、「1560年、軍神と恐れられた上杉謙信が11万超えという未曾有の大軍で小田原城に攻め入りましたが、落とせず、69年に同じく戦上手の武田信玄が攻め入りましたが、やはり落とせず撤退していました」(同)

 北条家には、この二つの成功体験があったのだ。そして、8万の兵を動員し、小田原城以外の忍(おし)城や鉢形(はちがた)城(いずれも埼玉県)、それに八王子城(東京都)といった各支城を徹底強化して迎え撃つ態勢を整えた。攻め込む秀吉は、各大名に命じて20万の兵を参集。小田原城の目の前に石垣山城を築き、持久戦の構えを取った。さらに、「異例ながら、この戦場に妻や家族を呼ぶことを諸将に許したほか、大道芸人を呼んで見世物を演じさせたり、太鼓や笛をかき鳴らして踊り遊ばせたり、すごろく大会を開いたりしたんです。これは20万の兵を飽きさせないためであると同時に、城に籠もる北条軍の士気を下げるため」(同)

 真田家はというと、昌幸は鉢形城攻めに、信幸は松井田城(群馬県)攻めに、信繁は石田三成らとともに忍城攻めに参加する。ドラマにも描かれているように、三成はクールに、てきぱきと物事をこなし、頭も切れるが、戦は実は大の苦手。そのため、武闘派の加藤清正(新井浩文)ら同僚武将からはバカにされていた。<三成に過ぎたる物が二つあり島の左近に佐和山の城> これは、“頭でっかちの弱者のくせに、佐和山城という立派な城と百人力の家臣・島左近というもったいない2つを持っている”という意味の、当時流行った三成を皮肉った歌である。勉強はできるが、運動オンチな秀才タイプ。そんな評価を覆すため、忍城を華麗に落とすことを目論み、かつて秀吉が用いて世間をあっと言わせた「水攻め」を試みるのだ。しかし――。

 気になる結果は、ぜひドラマでご覧いただきたい。小田原城はというと、半年の完全包囲を経て落城する。北条家が援軍として頼みにしていた政宗が、小田原在陣中の秀吉の元に参陣して服属。これ以上の抵抗が不可能になったのだ。この間、小田原城内では「城外への出撃決戦派」と「さらなる籠城派」に分かれて会議が繰り返し行われたが、結論が出ないまま終戦となった。このときの様子から、「小田原評定」という言葉が生まれたのだ。この勝利で秀吉の天下統一が事実上、達成される。

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