嵐、生田、山P…ジャニーズ「花の96年組」のブレイク前夜の画像
嵐、生田、山P…ジャニーズ「花の96年組」のブレイク前夜の画像

 嵐の松本潤、二宮和也、相葉雅紀、関ジャニ∞の渋谷すばる、横山裕、村上信五、そして生田斗真に、山下智久、この8人は1996年にジャニーズ事務所に入所した同期だ。つまり今年、入所20年の節目を迎える。今でこそ、男性アイドルグループの頂点に君臨している嵐と関ジャニ。しかし、ここまでくるには当然下積み時代があり、幾度となく、ユニット編成を繰り返してきた。関ジャニは本拠地が関西だったが、ここではそれ以外の、関東勢の歴史を振り返ってみよう。

 最初にロケットスタートを決めたのは、現在一流俳優となった生田だ。入所同年からNHKの番組『天才てれびくん』シリーズのメインキャラクターである「てれび戦士」に大抜てきされ、およそ2年もレギュラー出演した。

 さらに翌97年には、朝の連続テレビ小説『あぐり』、フジテレビ系バラエティ番組『中居正広のボクらはみんな生きている』にも出演するなど、中学生にしてスピード出世していった。

 入所人数が増えたことによって、ジャニーズJr.の人気も高まり、97年あたりからは続々と新ユニットが誕生していく。B.B.B(Best Beat Boys)に振り分けられたのは、松本、二宮、相葉、生田ら6人。彼らはのちに、J-Boys(Johnny’s Boys)に異動し、ピーク時には総勢25名にまで膨らんだ。ここには山下も加わったが、大多数はその後、退所している。

 試金石のような形で結成された同グループは、やがてジャニーズJr.Boysに改名、そこからふるいにかけられて事務所が本格的にプッシュしようと動き出したといわれていたのが、MAINだ。グループ名はメンバーの頭文字からとったもので、松本のM、相葉のA、生田のI、二宮のNでMAIN。これを機に、4人の親密度が深まったという。

 さらに翌98年、生田は山下とB.I.G. Eastを結成。京都劇場の舞台『KYO TO KYO』からB.I.G. Westが誕生したため、それに対抗する形で関東の2人が抜てきされたのだ。のちにB.I.G.となってメンバーも7人に増えたが、ここには、のちにKAT-TUNになった田中聖(現在は退所してバンド「INKT」のボーカルとして活動中)、A.B.C-Zの五関晃一らも在籍していた。

 そして運命の99年、ついに嵐が誕生する。大野智、櫻井翔(当時は「桜井」表記)、松本、二宮のメンバー入りが決定したが、最後の1人はまだ決まっていなかった。ジャニー喜多川社長が直接自宅に電話をし、「ハワイのデビュー記者会見の日にスケジュールが空いていた」「パスポートを持っていた」「それを告げる電話に本人が出た」という理由で相葉に決まったのだとか。

 生田が嵐から外された理由は明らかにされていないが、同期が歌手デビューし、そのバックダンサーという役回りになった当時15歳の生田は、相当悔しい思いをしたはずだ。

 しかしその苦境を乗り越え、俳優として頭角を現すことになった生田。2015年に生田が主演するドラマ『ウロボロス』(TBS系)の主題歌に、嵐のシングル『Sakura』が起用されたことは、当時からのファンにとっては感慨深い出来事だっただろう。

 仕事の分野ではそれぞれの道を歩むことになった96年同期組。しかし今でもプライベートでは変わらず仲が良いそうだ。

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