しかし、陛下も現在82歳。ご高齢になられる一方で、逆に公務は増えるばかり。平成の世になってからは、ソ連の崩壊をはじめとした独立国家の誕生が相次ぎ、国家元首などの国賓来日の機会も激増した。「宮内庁では、陛下が70代後半になられた頃から、公務をできるだけ軽減したいと考えるようになってきたんです」(前同)

 宮内庁のみならず、皇后陛下や長女の紀宮さま(現・黒田清子さん)も、負担の軽減が望ましいとの考えを示された。ところが2003年、陛下は70歳のお誕生日会見で記者団の質問に対して、次のような“お言葉”を残されている。<2人(皇后陛下と紀宮さま)とも私の健康を心配して、負担の軽減について考えてくれていますが、公務を減らすとは言っていません。天皇の公務はある基準に基づき、公平に行われることが大切であるという私の考えを共有しているからです> このお言葉の意味を、前出の皇室ジャーナリストがこう読み解く。

「陛下は、どの公務も平等に全力投球しなければいけないという強い意志を持っておられます。また、天皇に代わりはいないという信念もお持ちです。摂政といえども、“天皇の名代”に過ぎないという考えです。つまり、象徴天皇の務めを果たせるのは天皇しかおらず、天皇がすべての公務に全力投球するためにも、若い皇太子に皇位を譲るべきだとのお考えなんだと思います」

 それもこれも、天皇が“国民と苦楽を共にする”ために――である。即位後、陛下は常にそのことを意識され、国民は陛下の“お言葉”に勇気づけられてきた。特に、災害時ともなると、なおさらだ。陛下が初めて災害の被災地を慰問されたのは、1991年に雲仙普賢岳が噴火した際。避難所で陛下は床に膝をつき、目線の高さを被災者に合わせ、言葉を交わされた。その後、どの災害現場でも、陛下はその姿勢を貫かれている。

 2011年の東日本大震災では、発生の5日後にビデオ映像で、<国民一人ひとりが、被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ、被災者と共にそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくことを心より願っています>と、被災者のみならず、全国民にメッセージをお伝えになった。「それだけではありません。陛下自身、範を示されました。福島第一原発事故の影響で、一部の地域で計画停電が実施されると、陛下は御所で“自主停電”を実行されたんです。そのとき、陛下は“私の体調を気遣ってくれるのはありがたいが、寒くても厚着すればいい”と、ご発言されていたそうです」(前出の宮内庁担当記者)

 また、陛下が被災地をお見舞いされた際、多くの国民を感動させた事実は、まだ記憶に新しい。まず、宮城県南三陸町でのこと。当時は物資が不足していて、避難所である中学校の体育館でも、天皇、皇后両陛下用に、2足分しかスリッパを用意できなかった。同行した町長にはスリッパがなく、それを見た皇后陛下が履きかけたスリッパを脱ぎ、天皇陛下までもが脱ごうとされた。結果、陛下は被災者と同じ靴下姿のまま、お見舞いされたのだ。

 また、その翌週、両陛下がマイクロバスで岩手県釜石市の陸上競技場から避難所の中学校へ移動する際、沿道の住民が手を振っているのを見て、両陛下は30分間、バスの中で立ったまま、ずっと沿道の住民に手を振られたという。「両陛下の東北3県のお見舞いは日帰りで行われました。理由は、宿泊すると現地に負担をかけるからです。その結果、かなりのハードスケジュールになりました。当時、すでに77歳のご高齢だった陛下は、やはり11月になって体調を崩され、気管支炎のために20日近く入院なさいました」(前出の皇室担当記者)

 その入院中も、陛下は公務をおろそかにしなかった。「入院中、皇太子さまが代読する式典のお言葉を、お考えになっていたんです」(前同)

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