その背景には、アメリカからの圧力があったことが知られている。いわゆる“ダレスの恫喝”である。「日本の全権代表がモスクワで共同宣言の交渉中、重光葵外相がアメリカのダレス国務長官とロンドンで会談した際、ダレスは、“もし日本が2島返還で合意してソ連と平和条約を結んだら、沖縄を永遠に返還しない”と恫喝してきたんです」

 当時は東西冷戦の真っ只であったため、日本の意志のみではどうすることもできなかったのだろう。結果として冷戦期は、ソ連側は「領土問題はない」という立場。日本側はそれに対して売り言葉に買い言葉で「4島一括即時返還」という立場を取り続けたわけだ。しかし、91年に共産主義のソ連が崩壊し、ロシアとなってから状況は一変する。

「そこから日本は、“領土問題の段階的な解決”に方針転換することができたのです。橋本(龍太郎)政権時代の97年11月には、エリツィン大統領とクラスノヤルスク首脳会談が行われ、2000年までに日露両国が平和条約を締結することが確認されました。当時私は国務大臣(北海道・沖縄開発庁長官)で、実現に向けて命懸けで奔走しました。その翌年の川奈首脳会談では、橋本総理が択捉島とウルップ島の間に両国の最終的な国境線を引こうと提案すると、エリツイン大統領がそれに応じようとしたんです。ところが、同席した補佐官が本国に持ち帰り検討すると言いました。その場には当時、官房副長官だった額賀(福志郎)さんがいました。もし私がその場にいたら、“補佐官が何を言うか、ここは首脳同士の話だぞ!”と遮ったと思います。あのとき、エリツィン大統領から言質を取っておけば、領土問題は大きく動いていたはずです」

 その後も、小渕恵三政権、続く森喜朗政権時代に領土問題は進展を見せる。「01年にはプーチン大統領と森首相の首脳会談がイルクーツクで行われ、平行協議を提案しました。歯舞・色丹島の具体的な返還と国後・択捉島が日露どちらに帰属するかを協議しようとしたのです。このイルクーツク会談は日本に“島”が最も近づいた瞬間でした。ところが、アメリカに軸足を置く小泉(純一郎)政権になるや、日露交渉は二の次になっていきます。小泉さんは日露関係の関心が薄く、外相の田中眞紀子さんは外交を混乱させ、小泉首相に更迭されています」

「繰り返しますが、4島一括返還は、冷戦期の米国の圧力もあってお題目となっていた虚構なのです。冷戦後、日本政府は4島の帰属が認められれば、返還時期に差があってもよいという考え方に方針変更しているのです。私はその方針に従い、ロシア外交に励んできました。それなのに、そういう歴史的事実を勉強しないで、鈴木宗男は“2島先行返還”とか“2島ポッキリ”だとか、“あいつは国賊”だとか中傷を受けたのです。しかし、結果はどうですか?……以降10年間以上、“空白の日露関係”の時代を迎えたじゃありませんか。もし私のアプローチを継続して実践していれば、すでに4島の問題は解決していたと思いますよ」

 こうした膠着状態を打開するのが安倍政権の使命だが、そこに、鈴木代表の蓄積したインテリジェンスが不可欠なことは、彼が官邸にたびたび招かれていることからも明らかだろう。「今回のウラジオストク会談は、イルクーツク会談を越えたと思います。安倍外交の成果と言えます」

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