とはいえ、当時の体重は80キロ前後と小兵の部類。むしろ脚光を浴びていたのは、「相撲留学」で東京から鳥取にやって来て、中学、高校の同級生でもある山口雅弘(現十両・山口=元幕内・大喜鵬)のほうだった。高校1年で高校横綱に輝いた山口とともに、団体戦の決勝に臨んだが、石浦の敗戦によって、鳥取城北高が苦杯をなめるという出来事もあった。

――高校3年生のとき、エストニアで行われた世界ジュニア選手権に出場したことで、相撲観が変わったそうですね。

石浦 ハイ。後に大関になった把瑠都関が、幕内の土俵で脚光を浴び始めた頃でした。ボクは体が小さいので、軽量級での出場だったんですが、世界選手権に出てくる選手たちの身体能力の高さに驚きましたね。相撲の基本に関しては、日本の選手はきっちりと身につけているんですが、ヨーロッパ勢のパワーに、底知れぬ恐ろしさを感じました。「相撲が世界中に広がっている」ということを実感した大会でもありました。

――世界選手権では、必ずしも日本人選手が強いわけではないんですね。

石浦 大相撲の世界で、モンゴル人力士やヨーロッパ出身力士が強いように、アマチュアの世界でも同じような勢力図が広がっていました。強くなるためには、体を大きくしなければならない。その思いが強くなりました。ですから、大学(日大)に入ると、とにかく食事の量を増やして、これまで以上にウエイトトレーニングに力を入れました。3年生で、ようやく100キロを超えたんですが、腸の病気になってしまって……。

 もともと食が細いタイプなのに、「大きくなりたい」一心で食べ過ぎたのが原因でした。結果、逆に20キロ以上も体重が減ってしまい、試合でも使ってもらえなくなり、目標を失った感じになってしまったんですね。4年生になって、相撲部のメンバーたちが次々に進路を決めていく中、ボクだけは迷っていました。そこで考えたのが、総合格闘技への転身だったんです。

――相撲とは、距離を置きたいということだったんでしょうか?

石浦 それもあったと思います。子どもの頃から相撲が身近にあって、小学校、中学校、高校、大学と当然のように相撲を続けてきました。でもボクは、ビッグタイトルを獲った山口のようなエリートではありません。横綱・白鵬関のスカウトを受けて大相撲の世界に進む彼の姿を横目で見ながら、「別の道を歩いてみたい」と思ったんです。

  1. 1
  2. 2
  3. 3
  4. 4
  5. 5