【追悼】松方弘樹「気がついたら青春映画の主演やっていました」~役者一族の人間力の画像
【追悼】松方弘樹「気がついたら青春映画の主演やっていました」~役者一族の人間力の画像

【俳優の松方弘樹さんが、2017年1月21日にお亡くなりになりました。日刊大衆では追悼の意をこめまして、「週刊大衆」2015年5月11日号に掲載されましたインタビューを再掲いたします。謹んでご冥福をお祈りします】

 B29は銀色なんです。僕が、3歳の頃に住んでいたのは、東京の赤羽台。そこに日本軍の基地があって、そのB29にポンポンと高射砲を撃っていました。そんな光景を目にしながら、僕は防空頭巾を被って、防空壕に逃げるんですが、街が真っ赤に燃えてたのを覚えています。

 終戦間近は、父親の実家の新潟に疎開し、東京に戻って来ると、ゆっくり走る進駐軍のジープが通るんです。映画で見るように、本当に米兵がジープの上から大きなチョコレートをピューって子どもに向かって飛ばすんです。最初に覚えた英語は「ギブミーチョコレート」。今の若い人は進駐軍と言っても知らないですよ。

 映画デビューしたのは、17歳の時でしたね。普通新人は月給3000円。でも、僕は3万円もらっていました。その他に、映画1本出演するごとに、10万円。それが、月に2本3本とあるんです。10代の少年の給与じゃないですよ。でも、忙し過ぎて使えない。たまる一方です。すると悪い先輩たちから、「財布持って来い」と誘われ、酒飲みにいくんです。それも何件もはしご。僕はまだ、未成年でしたから飲まないのに、馬鹿みたいなもんです。

 新人なのに破格の待遇を受けていたのは、まあ、親の七光りです。父親は、近衛十四郎といって名前が売れていた時代劇俳優だったんです。

 俳優になったのも、父親の影響が大きいですね。僕は歌をやりたかったんですが、「演技も歌に役立つから、役者もやれ」と父は言うわけです。当時の東映の社長の大川博さんに会わされ、気がついたら青春映画の主演やっていました。

 当時は、映画黄金時代。物凄い数の映画を撮っていましたからね。台本が次から次にくるんです。毎日、7、8本を持って一人前です。2、3本だと売れてないね、なんて言われる時代でした。僕はまったくの素人だし、すぐに辞めようと思っていたんですが、撮影所に缶詰状態だったし、会社も辞めさせてくれなかった。

 その後、1年足らずで、京都の太秦にスカウトされたんです。太秦は当時、時代劇全盛でした。片岡千恵蔵さんらの大御所から、若手の中村錦之助、里見浩太朗さんなどがいました。女優では、お嬢(美空ひばり)がトップで、木暮美千代、花柳小菊さんなど錚々たるメンバーばかり。

 お嬢は、僕より5つ年上なので、生きていれば77歳。いつも20人くらいの取り巻きに囲まれているんですが、ちっちゃいから見えないんですが、威厳のある人で、僕なんて声もかけてもらえない。それでも3年ほどすると、挨拶したとき、「あなた、近衛さんとこの坊や」なんて口をきいてもらえたことを覚えています。

 そのお嬢から、舞台の相手役をやれって声がかかったんです。でも、お断りしたんです。格が違い過ぎる。僕が共演したとしても、ポスターは、お嬢の顔が大半で、ぼくなんて隅っこに小さくのるぐらいですよ。

 お嬢に「せめて、ポスターの顔の大きさが半分くらいにならないと出れません」とはっきり言うと、「うーん、わかるけど」とガラガラ声で言われましたが、その後、問題が……。

 江利チエミさんからお声がかかり、OKすると、お嬢が「ちょっといらっしゃい。私を断って、チエミの出るって、どういうことよ」と。で、ポスター見せると納得してくれて。顔の大きさがあまり違わないんです。

 その後、お嬢が亡くなるまで、長いこと飲み相手になっていましたね。

 酒は強いです。最高記録はウィスキー5本に日本酒1升飲みました。さすがに歩けませんでしたね(笑)。飲み比べでは、無敵でした。キヨ(元巨人の清原和博選手)にも、千代の富士にも負けませんでした。ただ、唯一負けたのが、プロレスラーの天龍源一郎さん。彼は本当に化け物でしたね(笑)。昨年、逝去された文ちゃん(菅原文太)ともよく飲みました。『仁義なき戦い』ではスターでしたが、兄貴のように慕っていましたよ。

 僕が主演した『修羅の群れ』にも大スターなのに、主演じゃなくても嫌な顔一つせずに出てくれたんです。プライベートでも長くつきあっていたので、思い出がいっぱい。文ちゃんって素敵なんですよ。

 大好きなマグロ釣りは、忙し過ぎて、ここ2年ほどは行ってないです。

 山に入って鹿なんかを狩るハンティングは60歳までしていました。アウトドアスポーツは好きですね。大自然の掌に抱かれるのは、心地いいですから。また、暇を見つけ300キロ超のマグロと格闘したいですね。

撮影/弦巻 勝

松方弘樹 まつかた・ひろき
1942年7月23日、東京生まれ。同志社中学に入学。卒業後、歌手を志望し明大中野付属高校に進学するも、「役者にさせられ、学校にも行けなかった」と語る。役者一家に育ったため、新人から主役に抜擢される。撮った映画作品は数知れず。テレビでも人気シリーズの『遠山の金さん』などに出演する日本を代表する役者。10代の頃に出会ったカジキ釣りから釣りの世界にどっぷりハマり、マグロ釣りでは名人級の腕前を持つ。

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