「汗をかいて頑張っている人間が、成果を出した瞬間は喜んであげなきゃいかんな。そういう気持ちで走っていこうという姿勢に、自分自身が変わってきたんですね。気持ちが切り替えられたことで、折れないで頑張れたんだと思います」 こうした先代師匠の生き方は、新横綱の中に受け継がれているに違いない。

 そんな隆の里に遅れること2年、相撲界に入門してきたのが、昨年亡くなった九重親方こと第58代横綱・千代の富士だった。身長183センチ、体重127キロと力士としては決して恵まれた体格とはいえず、肩をすぐに脱臼してしまう癖もあったが、1日500回の腕立てや、ぶつかり稽古で徹底的に鍛え、鋼のような肉体を作り上げた。

 歴代2位の通算1045勝、歴代3位の優勝31回を誇る大横綱“ウルフ”は、次のように語っている。「私みたいに小さな体の力士は、遠いところに夢や目標を置いてもダメなんです。あまり大きな目標を置いて、できなかったら、ガクッときますからね。目標をまず身近なところに置いて、それを一つずつクリアしていく。一つクリアしたら、もうちょっと先に目標を置いてみる。すると、“じゃあ、頑張らなきゃ”という気持ちになる。それができたら“また先に”。階段を一歩しっかり上がったら、今度は力をつけて、また上がるんだっていう、そういうやり方です」

 稀勢の里は“雲竜型”の奉納土俵入りをお披露目したが、観衆は貴乃花(94年)の2万人に次ぐ歴代2位の1万8000人。それまでの2位は1万人の千代の富士(91年)だった。

「横綱は、負けたら記事になるんですよ。勝っても記事にならない。たまにしか負けないのに、デカデカと自分の敗退シーンが新聞に載っているのを見ると、ガックリくるものです。じゃあ、勝った相撲でも新聞に載るような相撲の内容にしたらいいんじゃないかって、私は考えたわけです。だから、もっと強くて内容のある相撲を取れば、新聞記者の人たちだって、“すげえな。じゃあ、記事を書こうか”ってことになるわけでね」

 頭や首筋を押さえつけて豪快に転がす左上手投げ“ウルフスぺシャル”は、その発想から生み出された大技だったのだ。

 最後は第52代横綱・北の富士の話で締めくくろう。奔放な行動から「現代っ子横綱」と呼ばれた北の富士だが、若い頃は体重が増えず、入幕まで7年かかるなど開花は遅かった。70年に玉の海と横綱に同時昇進すると、「北玉時代」とうたわれたが、翌10月には玉の海が虫垂炎で入院中に急死してしまう。

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