――そうですよね。では、ここで大関の過去を振り返ってみたいと思います。平成21年、相撲留学(鳥取城北高)で来日して、翌年、角界入りしたときは、現在とは別の部屋に所属していたんですよね。

照 日本には、2歳年下の逸ノ城(現・幕内)と同じ飛行機で来ました。自分は1年で高校を中退して、初めは間垣部屋(元横綱・二代目若乃花)に入ったんです。大関時代までの師匠の四股名が「若三杉」だったので、「若三勝(わかみしょう)」という四股名をいただきました。東日本大震災が起きたり、相撲界にもいろいろなことがあって、夏場所が「技量審査場所」となった平成23年5月に初土俵を踏んだんです。間垣部屋は力士の数が少なく、アットホームな部屋だったんですが、師匠の健康上の問題などがあって、2年後に閉鎖することになってしまって……。

 力士は、相撲部屋に所属しなければ土俵に上がることができません。それで、自分は、関取になってから付け人を務めてくれている兄弟子の駿馬さん(現・幕下)たちと一緒に、伊勢ケ濱部屋に移籍することになったんです。「これから、どうなっちゃうのかな?」と不安でしたよ。伊勢ケ濱部屋には当時、大関だった日馬富士関、ベテランの安美錦関、宝富士関などの関取衆も多かったですし……。

――環境がガラッと変わったわけですね?

照 ハイ。生活環境もそうですが、稽古の環境が180度変わりました。部屋にたくさんの兄弟子がいたので、いろいろなタイプの人と稽古できるようになったのが大きかったですね。それに加え、伊勢ケ濱部屋は毎日の稽古がとても厳しい。横綱昇進がかかっている日馬富士関は目の色を変えて稽古していたし、ベテランといわれる安美錦関も休まない。幕下の自分は、そうした先輩たちについていくので必死でしたし、受け入れてくれた今の師匠に対しての感謝の気持ちもありました。結果、移籍して2場所で十両に昇進できたんです。

――転機になった?

照 まさにそう。部屋を移ってよかったと思うし、移っていなかったら今の自分はいないでしょうね。人生、どこにチャンスか転がっているかわかりません(笑)。

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