ちなみに“預かり”とは、物言いのついた相撲などで、勝敗を決めない場合などに適用されたという。個人の優勝を制度として確立させたのは、90年前の大正15年(1926年)。「天皇賜杯(当時は摂政賜杯)が幕内最優秀成績者に授与されたことがきっかけでした。同時に引き分け、預かり制度などをなくし、取り直しが制度として導入されました」(同)

 その賜杯にも謎がある。大正14年、当時の摂政宮(のちの昭和天皇)の誕生日に東宮御所で相撲大会を開いたのが契機となり、賜杯が作られたのだが、今のものとは違うのだ。というのも、その“幻の賜杯”には皇室の菊の紋章が刻印されていたのだが、宮内省と内務省などからクレームが入り、鋳つぶされてしまったためだという。その後、新たに作られたのが今の天皇賜杯。その「賜杯を抱く」ことを目標に、国技館の土俵で熱い戦いが繰り広げられているが、その賜杯の誕生がもう一つ、意外な効果を相撲界にもたらしたという。

「江戸初期には京、大坂が相撲の中心でしたが、江戸中期の天明頃からは江戸がその中心となり、京、大阪を凌駕。その後、大正時代に入り、東京で賜杯が作られたのを機に、滅亡寸前だった大阪相撲協会を東京相撲協会が吸収合併し、大日本相撲協会(現・日本相撲協会)が発足したんです」(同)

 試行錯誤を繰り返しながら、現在の大相撲ができあがったわけだが、まだまだ驚いてはいけない。稀勢の里が、19年ぶりの日本出身横綱となり、ますます注目を集める「横綱」にも、意外な秘密が隠されていたのだ。「大関は2場所連続で負け越せば陥落します。横綱の場合、降格しないというのが常識になっていますが、そんなことは誰も決めていなかったんです」(同)

 横綱が横綱でなくなるのは、引退するときだと思っていた本誌もビックリの情報だった。「横綱は江戸時代の寛政元年(1789年)に、相撲の故実・礼式に精通している吉田司家の19世吉田追風が、大関・谷風らに横綱の免許を与えたことに始まります。しかし、当時の横綱は、地位ではなく、“強豪大関に与えられる称号”。しかも、それは恒久的な制度ではありませんでした。なぜなら、史上最強力士といわれる大関・雷電には横綱の称号が与えられていません。横綱を大関と分けて考えるようになるのは幕末の横綱・陣幕から。その後、大関の降格が規則で定められましたが、横綱はまだ当時、称号にすぎなかったので、何も触れられなかったんです」(同)

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