12年前の夏、戦う舞台を世界に求め、一頭の牝馬が海を渡りました。父・サンデーサイレンス、母・ダンシングキイ。母父は、米三冠を制した20世紀を代表する名馬・ニジンスキー。全弟にダンスインザダーク、全妹にダンスインザムードがいる超良血のお嬢様、ダンスパートナーです。
僕が彼女とコンビを組んだのは、3走目となる「チューリップ賞」から。このときは、出遅れと4コーナーの不利が響いてハナ差の2着に終わりましたが、――これは、とんでもない女の子だ。跨っていて、ゾクゾクしたのを覚えています。
続く、「桜花賞」も出遅れてクビ差の2着。ベガ、オグリローマンに続く3度目の勲章は逃しましたが、悔しさよりも、800メートル距離が延びる「オークス」に向けて、さらに自信を深めていました。
――東京競馬場の2400メートルなら力を出し切れる。それは、絶対的な自信でした。ここで、完璧な勝利を飾った彼女が次に目指したのが世界です。
遠征初戦は、フランスのドーヴィル競馬場で行われたG3「ノネット賞」でした。日本ではお目にかかれない4頭立てで行われたレースは、ヨーロッパ特有のスローペースでスタート。ジリジリとするような我慢比べは、最後の直線で一気に火を噴きました。
仏1000ギニーの優勝馬で、オークス2着のマティアラとの激しい叩き合い……最後はクビ差の2着でしたが、今でも、あのときの2着は、勝ちに等しい2着だったと思っています。その証左に、大目標だった続く仏G1「ヴェルメイユ賞」では、ヨーロッパの強豪馬たちを抑え、ダンスパートナーが堂々の1番人気に支持されたのです。
遠征直後、――日本馬は避暑にでもやって来たのか。現地ではこう揶揄され、日本では無謀な挑戦といわれていた時代に、日本馬が海外のG1で1番人気となり、しかも、その彼女に騎乗できたことは、僕のジョッキー人生の中で大きな誇りであり、自信になったことは言うまでもありません。