生麦事件から薩摩藩とイギリスの絆が固まった理由とはの画像
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 江戸時代の終わりに起きた”生麦事件”を知っているだろうか? 生麦生米生卵ナマムギナマゴメナマタマゴなまむぎなまごめなまたまご……早口言葉とは何の関係もないが、生麦事件は日本が大きく揺れ動いていた幕末に、国際的な政治問題になった重大事件なのである。この事件が一つのきっかけになって、日本史は激動の転換期に突入していくのだ――。

■生麦事件って、どんな事件?

 分かりやすくいうと、生麦事件は薩摩藩士がイギリス人4名を殺傷した事件である。武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)で発生したことから、生麦事件という名前がついた。事件後、薩摩藩はイギリスに犯人の引き渡しと賠償金の支払いを要求されたが、拒否したため薩英戦争に発展した。

●ポイント解説:尊王攘夷運動

 生麦事件が発生した当時、日本では尊王攘夷運動が盛り上がっていた。尊王攘夷運動とは、天皇を尊び、外国を退けることをスローガンにした政治運動である。本来は弱体化した幕府の立て直しを目的としていたが、いつしか反幕府運動へと変わっていった。この運動は、主に下級武士や若くて意気盛んな公卿、地主や豪農に支持された。

■さらに詳しく解説!

 それでは、生麦事件を詳しく見ていくことにしよう。事件が起きたのは、第14代将軍・徳川家茂の時代である1862年9月14日のことだった。400人の軍勢に囲まれて東海道を江戸から京都へ向かっていた薩摩藩主、島津茂久の父である島津久光が、生麦村を通過中に、乗馬で川崎大師まで行く予定のイギリス人4名と遭遇した。

●メンバーは以下の4名

・チャールス・リチャードソン

上海で商社を経営していたが、仕事を畳んでイギリスへ帰郷する前に、観光で日本へやって来た。

・ウッドソープ・チャールズ・クラーク

横浜で働くアメリカ商社の社員。リチャードソンとは上海で親交があった。

・ウィリアム・マーシャル

イギリス人の商人で横浜で絹輸入業などを行っていた。クラークとはビリヤード仲間だった。

・マーガレット・ワトソン・ボラディル(ボロデール夫人)

イギリス人の商人トマス・ボラディルの妻。マーシャルにとっては義妹にあたる。

 島津久光の行列を守っていた薩摩藩士たちは、イギリス人たちに遭遇した際、身ぶり手ぶりで下馬して道を譲るように説明した。しかし、4人は下馬するどころか、行列の中を逆行して進んでしまった。そのため島津久光の身辺に危険を感じた薩摩藩士数人が斬りかかったのだ。このとき先頭にいたリチャードソンは死亡し、マーシャルとクラークも深手を負った。ボロデール夫人は無傷で横浜の居留地へ駆け戻り、マーシャルとクラークは、当時アメリカ領事館だった本覚寺に逃げ込んだ。これが、生麦事件である。

●ポイント解説:あの大久保利通も関係していた!?

 若き日の大久保利通が、この事件について、薩摩藩の公式見解として報告書を書いている。それは「大名行列は作法が厳しく、外国人は外出を控えるように通達していたのだから、非は外国人側にある」という内容だった。大久保利通といえば、薩摩藩出身で西郷隆盛の幼なじみでもある明治維新の中心人物だ。江戸幕府を倒した後、明治新政府の要職に就いて廃藩置県や地租改正などの大改革を行った。しかし征韓論をめぐって西郷や板垣退助ら征韓派と対立して失脚させたが、不満を抱いた士族らに暗殺された。

 また、生麦事件でリチャードソンにとどめを刺したのが、後に奈良県知事、貴族院議員などを務めた幕末期の政治家、海江田信義(有村俊斎)だった。

●薩摩藩に理解を示した外国人もいた!?

 生麦事件より前に島津久光の行列に遭遇していたアメリカ人商人のユージン・ヴァン・リードは、下馬した上で馬を端に寄せて行列を優先させ、脱帽して礼を示した。このときは薩摩も彼の行動を了解し、問題が発生することはなかった。生麦事件のことを聞いたヴァン・リードは、イギリス人たちの行動を非難して「自業自得だ」とコメントした。

 また米国の新聞『ニューヨーク・タイムズ』は、悪いのは帝国の貴族に無礼な行動をとったイギリス人であると断言するような記事を掲載した。清国の北京駐在イギリス公使だったフレデリック・ブルースは、上海時代にリチャードソンが暴行罪で罰金刑に処せられたことを知っており、彼を野蛮な人物だとする意見を残している。

■事件の余波

 生麦事件の余波は、様々な方面へ広がっていった。事情が少し複雑なため、分かりやすく整理するために、イギリス、幕府、薩摩藩の三者に分けて時系列で追ってみよう。

●イギリスの反応と対応

 イギリス代表として奔走したのは、ジョン・ニール代理公使だった。彼は武力報復を主張する駐留外国人を抑え、幕府との外交交渉で事件を解決する姿勢を貫いた。ニール代理公使は事件直後から何度も幕府の人間と会談し、リチャードソンを殺害した犯人の引き渡しを要求した。1863年に入って本国から指示が届くと、2月19日、幕府に対して正式な謝罪状の提出と賠償金10万ポンドを要求した。また薩摩藩には幕府の力が及んでいないとして、艦隊を組んで薩摩藩に行き、犯人の処罰と賠償金2万5000ポンドを直接要求すると通告した。このときイギリス艦隊はもちろん、オランダ、フランス、アメリカの艦隊まで横浜港に入港させて、幕府に圧力をかけた。

●江戸幕府の反応と対応

 当時の幕府内には、人事に口を出してきた薩摩藩の島津久光を敵視する者が多く、生麦事件に関しても、薩摩が幕府を困らせるためにわざと起こしたとする見方が一般的だった。そのため、イギリス側から犯人の引き渡しや謝罪状の提出、賠償金の支払いを求められても、方針や対策すら立てられずにオロオロするばかりだった。特に賠償金の支払いについては幕府内で意見が対立し、何度も結論がくつがえされた。そのためニール代理公使を戦闘準備に駆り立てるほど怒らせた。しかし最終的には1863年5月9日に要求された賠償金を全額を支払った。

●薩摩藩の反応と対応

 生麦事件の後、神奈川奉行に報告を求められた島津久光一行は、“浪人が外国人を討って消えただけで薩摩藩は関係ない”と届け出て、引き止めにも応じず京へ向かった。それ以降も、繰り返し幕府から説明や犯人の引き渡しを求められたが、犯人は行方不明になっているなどとシラを切り通した。また、1863年2月19日以降、幕府を通じてイギリス側の要求である犯人の処罰と賠償金2万5000ポンドの支払い要求も伝えられたが、あくまで拒否し続けた。幕府が賠償金を支払ったときも無視を決め込んだ。

 ちなみに生麦事件に対する一般庶民の反応としては、「さすがは薩州さま!」と薩摩藩を支持する声が大きかったようだ。なお事件から約2週間後に京都で参内した島津久光は、孝明天皇に労を賞されるという異例の厚遇を受けている。

■薩英戦争が勃発

 イギリスは薩摩藩と直接交渉するため、1863年6月27日に軍艦7隻で鹿児島湾に入った。しかし交渉は決裂し、7月2日にとうとう薩英戦争が勃発した。開戦のきっかけは、イギリス艦に船を拿捕された薩摩藩がイギリス艦隊を砲撃したことだった。この戦争で薩摩は鹿児島市街の1/10を消失するという甚大な被害を受けた。しかしイギリス艦隊も激しく損耗し、1隻が大破、2隻が中破したほか、63名もの死傷者を出したため、7月4日には鹿児島湾から撤退し戦闘を収束させた。

●薩英戦争は意外な結果へ

 1863年10月5日、イギリスと薩摩は横浜にあるイギリス公使館で、3度目となる和睦交渉のテーブルにつき、ついに講和した。薩摩藩が幕府から2万5000ポンド相当の6万300両を借りて、イギリスに支払って決着した。しかし講和条件の一つであった生麦事件の犯人の処罰は、いまだ逃亡中だと言い張ってうやむやにした。また薩摩藩が幕府に借金を返すことはなかった。

 当時、世界最強を誇っていたイギリス海軍が撤退したことは、西洋を驚愕させた。イギリスは、この講和交渉を通じて薩摩を高く評価するようになり、同藩と関係を深めていくことになった。そして薩摩側も、薩英戦争で欧米文明と軍事力の優秀さを身をもって理解したため、イギリスとの友好関係を深めていくことにしたのだーー。

■事件を伝える史跡は、今なお残る

 神奈川県横浜市には、生麦事件を今に伝える史跡が残っている。

・生麦事件碑

 リチャードソンが絶命した場所に建つ石碑。当時の情勢やリチャードソンの死を悼む歌が書かれている。

・横浜外国人墓地

 生麦事件の犠牲者、リチャードソンが眠る墓地。同事件で負傷したマーシャルとクラークの墓も並んでいる。

■まとめ

 生麦事件とはひと言でいうと「武士が外国人を斬り殺した事件」だが、結果的には大砲を撃ち合う国際戦争に発展してしまった。しかも戦後、敵同士が仲良しになってしまったというオマケつきであった。薩英戦争から3年後の1866年に、ハリー・パークス駐日英国公使が正式に薩摩を訪問している。その際に薩摩藩主の島津茂久や西郷隆盛と会見したほか、なんと生麦事件の当事者である島津久光とも会っているというから驚きだ。まさに昨日の敵は今日の友!?

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