アナウンサー界のレジェンドが語る「伝説の競馬名実況」感動プレイバック!の画像
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 数多くの名レースに華を添えてきた2大アナウンサーの名フレーズは、どのようにして生まれたのか。超豪華インタビューを敢行! 涙を誘う、あのシーンが蘇る!!

「今年もあなたの、そして私の夢が走っています」 競馬ファンにとっては、この言葉を聞くだけで当時の情景が浮かび、あの声が頭の中で響く。そう、これは1990年代に行われた宝塚記念の実況で、何度も繰り返された言葉だ。名馬が紡いできた歴史とともに、我が国には誇るべき名実況の歴史がある! ということで、数々の名実況を生んだ、「競馬実況の神様」杉本清氏。そして、その後継者として80年~2000年代に大活躍した馬場鉄志氏。今回は、実況界のレジェンド2人に、当時の裏話とともに、振り返ってもらった。

■G1菊花賞でファンの心をつかんだ名言

 まず杉本氏に聞いたのはサクラスターオーが勝った1987年の菊花賞の名実況。「菊の季節にサクラが満開!」 レースをリアルタイムで見ていなくても、この言葉を知っている若い競馬ファンも多いのではないだろうか。「自分としては平凡な実況だと思ったんですけどね。だって前の日から考えていたら“季節外れのサクラです!”とか、もっと整った言葉を使えたはずですから。こんな話題になるなんて思いもしなかった」(杉本氏)

 裏を返せば、キレイに整っていなかった言葉だからこそ、多くのファンの心をつかんだ名言だったのかもしれない。

「よく“前もって用意しているんだろう”と言われるんですけど、ほとんどないんです。数少ない用意した経験で、今でも強烈に覚えているのが、92年の菊花賞なんです……」

 この年の菊花賞の1番人気は、前年の朝日杯3歳Sから、皐月賞、ダービーとすべてを勝利したミホノブルボン。前評判では、三冠確実といわれていた。「ちょうど、その日は大相撲の九州場所の初日。当時、横綱不在と新聞によく出ていたんです。だから、ブルボンが勝ったら“競馬の世界には横綱がいます”と決めてやろうとワクワクしていました。そうしたら、ライスシャワーでしょ。この野郎と思いましたよ。もちろん、馬に罪はないですけどね(笑)」

■ナリタブライアンの三冠達成の瞬間

 ミホノブルボンは二冠に終わったが、杉本氏は過去3頭の三冠牡馬達成の瞬間を実況している。その中でも伝説として語り継がれているのが、94年のナリタブライアン。そのときのフレーズが、これだ。

「弟は大丈夫だ! 弟は大丈夫だ! 弟は大丈夫だ!!」

 ナリタブライアンの兄は菊花賞、天皇賞・春を制した名馬ビワハヤヒデ。しかし、菊花賞の前週に行われた天皇賞で屈腱炎を発症。引退発表直後に行われたのが、この菊花賞だった。「ダービーの勝ちっぷりから、競馬ファンの関心は、ビワハヤヒデとの兄弟対決に集中していました。もちろん、私もその一人。ただ普通なら、その舞台は年末(有馬記念)ということになりますよね。でも私は関西ですから、できることなら有馬記念でなく、来年の宝塚記念で初対決を実況するのが私の夢だった。そういうようなことを新聞記者に話したんです。その際に、“菊花賞は、どんな実況をしますか?”と聞かれて、そのとき伝えたのが、この言葉だった。そのまま新聞に出ちゃっているし、これは言わないと仕方なかったんです」

 杉本氏としては、新聞に言わされた言葉で、あまり納得はしていなかったが、何年も経過して、タレントで競馬好きのDAIGOに「全国の弟に光を当てた」と言われ、今では言って良かったと思っているとか。

■「日本近代競馬の結晶」ディープインパクト

 それから11年が経った2005年。21世紀になり、次なる三冠馬が誕生した。それがディープインパクト。名馬には大抵キャッチフレーズがつくが、この馬の冠は菊花賞での実況内で生まれた。

「世界のホースマンよ、見てくれ! これが日本近代競馬の結晶だ!!」

 この“近代競馬の結晶”という誰もが納得する言葉を生んだのが、杉本氏の後輩である馬場鉄志氏だ。「負けっこないと思っていましたから、用意していました。前哨戦の神戸新聞杯のときは何の特色もない実況をしたんですよ。それを後輩ディレクターにからかわれて、“本番まで取っておくんだ”と言いましたからね。ここはバシッと決めないとマズいだろうと」(馬場氏)

 このレースでは、道中にも名文句が生まれている。「手綱を通して血が通う。武豊とディープインパクト」

「これは専門的な話なんですが、日本人の耳にはリズムが大事なんです。これが“ディープインパクトと武豊”だと気持ち悪い。ちなみに、この言葉は、硫黄島の指揮官であった栗林中尉の愛馬進軍歌のワンフレーズを使用しました」

●凱旋門賞を意識していた実況

 この頃の競馬界はディープインパクト一色。当然ながら、06年の天皇賞・春も、馬場氏が実況を担当した。

「ハーツクライよ、ハリケーンランよ、待っていろ!」

 ハーツクライは05年の有馬記念で初めて土をつけられた相手。そしてハリケーンは、05年の凱旋門賞を勝った、当時“世界一”の馬だった。今でこそ、凱旋門賞が手の届くところまできた日本競馬だが、当時はまだ狙って勝つところに位置していない立場。だが、強気に“待っていろ”と実況に取り入れていたのだ。「凱旋門賞は勝つと思っていましたから。私の競馬人生で、こんな馬は見たことがない。天皇賞の上りが4ハロン44秒ですからね。他と4秒くらい違いますよ」

 菊花賞で世界のホースマンという言葉を使い、天皇賞・春で、すでに凱旋門賞を意識していた馬場氏。その理由の一つに、自身と競馬実況の出合いが関係しているという。「初めて私が競馬実況に魅せられたのは、ローレル競馬場で行われたワシントンDCインターナショナル。当時、予備校生だったんですが、ラジオにしがみついて小坂巌さんの実況を聞いていました。“4番が日本のタケシバオーです”という言葉が海を越えて聞こえてきたときは、本当に興奮しましたね」

 実況アナウンサーになる夢を叶えた馬場氏が、世界を意識するディープインパクトと出合ったことで生まれた名実況だったのだ。

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