三重県は志摩半島の入り江に浮かぶ渡鹿野島。かつては“桃源郷”ともいわれ、多くの男性たちの欲望を満たす歓楽街として栄えた島だ。
1998年に三重県伊勢市で観光情報誌を刊行していた伊勢文化舎という出版社の女性記者が行方不明となった事件では、地理的に近いこともあってか、この島と女性記者を関連させた噂が、雑誌の記事やインターネットの掲示板にはいくつも上がった。たとえば、女性記者が前日まで行っていた旅行先のタイで日本への人身売買ルートの闇を知ってしまったことから、トラブルに巻き込まれて島に拉致監禁された、あるいは、彼女が渡鹿野島の犯罪組織をかねてから調べていたために、組織が誘拐して島に売り飛ばした、などなど。
「あまりに荒唐無稽ですね。だいたい、渡鹿野島にいたら、すぐに見つかるでしょ!? 人の命がかかっているのに、こういう噂が飛び交うのは、よくないですよ」こう語るのは、警視庁の元刑事で犯罪学者の北芝健氏。
確かに、どれもオカルト雑誌やネットの掲示板が好みそうな仮説ではあるが、かつての歓楽街が、そんなに恐ろしい噂の立つような場所だなんて……。いったい今、渡鹿野島はどうなっているのだろうか――。
伊勢文化舎が発行していた情報誌のタイトルにもあるように、この地域は「伊勢志摩」と一括りに呼ばれることも多く、地図上では同じ小さな半島に位置しているが、伊勢と志摩は、実はそんなに近くない。伊勢の市街地から渡鹿野島のある志摩半島の先端付近までの距離は約30キロメートル。東京の都心から横浜の市街地までの距離に相当する。車では、勾配の急な峠道を越えて約1時間といったところだ。
『志摩スペイン村』というテーマパークを通り過ぎ、岬が見えてくると細い道を入る。そこを、しばらく行けばフェリー乗り場だ。フェリー乗り場は、島のすぐ目の前にあった。対岸の船着き場付近には大きなホテルもある。そんな情景からは、売り飛ばされた女性たちが閉じ込められているという陰鬱なイメージは、まったく感じられなかった。
片道180円の渡し船で3分。あっという間に島に到着した。平日の昼間ということもあったが、周囲に人はほとんどいなかった。島には、人がすれ違うのも難しいほどの路地が張り巡らされており、そこを歩くと、古くからの住宅や廃業した店舗、朽ちた廃墟が散見できる。
島で一番栄えているであろう場所に行き、そこで営業していた喫茶店で話を聞いてみると、「一番繁盛したのは1970年代、高度経済成長の頃だったねえ。その頃は、名古屋や関西の会社の慰安旅行みたいなのが多くて、お客さんは1000人単位で来とったからな。女の子が300人ぐらいおったけど、全然追いつかん。渡し船も全然足りなくて、波止場にも通りにも人が溢れ返っとったよ」
その後も好景気が続けば栄えたようだが、バブルの崩壊やリーマンショックで産業が冷え込むと同時に、島の風俗産業も衰退。今では、“女の子”の数は30人程度だという。そのうちのほとんどが、東南アジア、特にタイから来た女性だそうだ。
島を歩いていたら、犬の散歩をしていた中年女性に声をかけられた。
「兄さんたち、遊びに来たの? 女の子、呼んだげようか?」
桃源郷と呼ばれた頃の賑わいは、すでに影もないが、昭和の遊びは、細々ながらも健在のようである。