丘みどり(演歌歌手)「NHK紅白歌合戦出場は亡き母との約束」ズバリ本音で美女トークの画像
丘みどり(演歌歌手)「NHK紅白歌合戦出場は亡き母との約束」ズバリ本音で美女トークの画像

 祝・紅白初出場! 演歌界で現在、大注目の丘みどりさん。色気溢れる美貌が目を引くが、亡き母との約束を果たすために努力を重ねられてきた苦労人。来し方を語ってくれました。

――デビュー13年目にしての『紅白歌合戦』初出場、おめでとうございます!

丘 ありがとうございます。

――実は今年10月、本誌で「紅白に出て欲しい歌手」という読者アンケートを行ったところ、丘さんが10位にランクインされたんです。

丘 本当に感謝しています。その記事を父が見つけてくれて、携帯で写真に撮って送ってくれたんですよ。

■鳥羽一郎のコンサートで感動して…

――いいお父様ですね(笑)。そもそも演歌を始めたきっかけはなんだったですか?

丘 私は、小さいときから人見知りが激しい子どもで、それを心配した母が、人前に出る習い事をさせたら、ちょっとは治るんじゃないかということで祖母と一緒に民謡教室に通い始めたんです。その少し後で鳥羽一郎さんのコンサートを見て感動して、演歌歌手を目指そうと思ったんです。

――渋い子どもですね!

丘 デビュー後に鳥羽さんにお会いしたときにその話をしたら、「ずいぶん渋い変わった子だったんだね」って言われました(笑)。

――演歌好きの小学生ってそうそういないと思いますが、周囲から浮いていませんでした?

丘 そうですね。でも、母は、私が他人と違うことをすると褒めてくれる人だったので、周りがJ-POPを歌っている中、私が演歌を歌うと言ったら、「いいやん!」って。

――素晴らしい!

丘 だから、たとえば、小学校の遠足のバスの中でも、『天城越え』を歌ったりしていましたね。

――本当に渋い!

■18歳の頃はアイドル活動を

丘 でも、実はストレートに演歌歌手になれたわけではないんです。18歳の頃にはアイドル活動をしていました。

――どういう経緯だったんですか?

丘 事務所に入ったら何でもできると思っていたんです。それで、オーディション雑誌の1ページ目に載っていたオーディションに応募したら、合格しまして。でも、アイドルというのは名ばかりでしたね。

――というのは?

丘 バンジージャンプをしたり、海に突き落とされたり体を張る仕事ばかりで。そこで学んだことは「泣いちゃダメ。血は見せるな。やれと言われたことは3秒以内でやる」の3つでした。

――アイドルじゃなくて、『たけし軍団』みたい(笑)。

丘 はい(笑)。それで、1年ほど経ってふっと立ち止まったときに、私何がしたいんだろうって考え直して。やっぱり演歌歌手になりたいということを再確認して、アイドルを辞めて、歌の専門学校に通いました。

■演歌歌手としてデビュー

――その後、2005年に『おけさ渡り鳥』でデビューされましたね。このときの衣裳は、へそ出しの短いスカートだったんですね。

丘 正直、すごく嫌でしたね(笑)。当時の事務所の社長に「新人なんだから、とにかくインパクトだ」って言われて。ライブに来てくださった女性のお客さんからも、「演歌はそんな格好で歌うもんじゃないよ」って言われたりもしましたね(笑)。

――そうなんですね。それで翌年から約1年、休業されたんですね。お母様が病気になられて……。

丘 はい。母ががんに冒され看病をすることになりました。その年末に他界してしまったんですけど……。

――つらい経験でしたね。

丘 はい。でも翌年には復帰をしました。病床の母と交わした「紅白に出られるような歌手になるから見といてね」という約束をキチンと守らなきゃと思ったんです。実は、母も歌手になりたかったそうで。

――そうなんですか。

丘 ただ、母は祖母に反対されて諦めたみたいで、後に反対を押し切ってでもやれば良かったと、後悔したそうです。

――歌手になることはお母様の夢でもあったんですね。

丘 そうなんです。

――復帰されたとき、心境の変化などありましたか?

丘 はい。それまでは歌うことが、ただ楽しいという感じだったんですが、プロとしての自覚を強く持つようになりました。それも病床の母から言われたことで、お客様がお金を払って聴いてくださっているんだということを、改めて思うようになりましたね。

――昨年、それまで活動拠点にされていた大阪から上京されましたね。

丘 デビューして10年間やってきて、特に大きな変化もなく、このまま続けていても仕方ないのかなと思いました。そこで、昔から抱いていた、いつか東京に出てチャレンジしたいという気持ちが強くなりまして。

――決断されたんですね。

丘 そのときも、母が亡くなる前にかけてくれた「やらずに後悔するよりも、やって後悔の人生を送ってほしい」という言葉が背中を押してくれました。所属事務所もレコード会社も移籍しての心機一転でした。

――勝負をかけた上京だったんですね。

丘 デビューして10年間は事務所の言われるままで、私はあまり意見しなかったんです。でも、東京に出ることも、新しい事務所へ移籍する事を決めたのも、全部自分の意思だった。そこで大きく変われたんだと思います。

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