■勝海舟と会談し、「江戸城無血開城」を成し遂げるも…
西郷の首がニセモノだったという噂のみならず、当時、西郷が城山で死なず、生き残っていたという風評まで流れた。「西南戦争の14年後、西郷はシベリアで生きていたという新聞記事が掲載されているんです」(渡邊氏)
事実かどうかは別として、明治の半ばになっても、生存伝説がささやかれていたことで、西郷の偉大さが分かる。中でも最大の功績は、戊辰戦争の際に征討軍の参謀となった彼が、旧幕府軍の軍事取扱(軍事の責任者)だった勝海舟と会談し、「江戸城無血開城」を成し遂げたことだろう。この「西郷・勝」会談が江戸の町を戦渦から救ったわけだが、最近の研究では、この西郷の輝かしい実績に疑問符がつくようになったという。「西郷は3月14日の会談の直前まで、一貫して対旧幕府強硬論者でした。ところが、会談では一転して旧幕府側の要求を飲み、江戸城への攻撃を中止させています。いったい、何があったのか」(前出の跡部氏)
謎を読み解くヒントはその前日、征討軍の参謀・木梨精一郎(長州藩士)がイギリス公使パークスと会見していることにあるという。「木梨がパークスに会った日付には諸説ありますが、13日だとしたら、西郷の態度の変化は頷けます。というのも、パークスは木梨に、“旧幕府への寛大な処置を”と強く望んでいるからです。新政府も英国の意向には逆らえず、翌14日の勝との会談で、西郷は譲歩したわけです」(前同)
日本が外圧に弱いのは150年前からのことで、江戸の市街を戦渦から守ったのは、英公使のパークスということになる。
一方で、西郷が維新後、征韓論を唱え、朝鮮出兵を望んだという通説も見直されつつあるという。「西郷の本音は“征韓”にあらず。朝鮮と条約を結び、南下するロシアの脅威に、両国が協力して対応しようという平和外交にあったとされるようになってきています」(同)
以上、知っているようで知らない西郷隆盛の実像を踏まえ、『西郷どん』を百倍楽しもうではありませんか。