闘将・星野仙一、知られざる「熱血神話」と「感動秘話」の画像
闘将・星野仙一、知られざる「熱血神話」と「感動秘話」の画像

 虎は死して皮を留め、人は死して名を残す。稀代の名将がその全身全霊をかけて残した“志”もまた、球界に受け継がれてゆく。合掌! 

 新年早々、衝撃の訃報が日本中を駆け巡った。中日、阪神、楽天――3つのチームの指揮官としてリーグ優勝4回、日本一1回の栄冠に輝いた星野仙一楽天球団副会長が、1月4日、すい臓がんにより70歳でこの世を去ったのだ。昨年11月28日、自身の野球殿堂入りを祝う会で元気な顔を見せてから、わずか1か月余りでの悲報だった。《バカヤローだよ。早すぎるよ、本当につらい》(大学時代からのライバルであり盟友の山本浩二氏)、《こんなに急に亡くなられるとは》(ソフトバンク王貞治会長)と、多くの野球人が、次々に談話を発表。その早すぎる死を悼んだ。

■“打倒巨人”で闘志満々!

 現役時代、そして監督となってからも、むき出しの闘志を隠さず“闘将”の異名を取った星野氏だが、その原点は、プロ入り時のある“挫折”にあった。事前に獲得の意思を伝えていた巨人が、一転、島野修投手を指名。「星と島を間違えたんじゃないか」と激怒した星野氏は、1位指名で中日に入団。そのときから「打倒巨人」を生涯のテーマとしたのだ。

《“打倒巨人”を前面に闘志満々でぶつかって来た投手だったからこそ、私も、さあ仙ちゃん来い、と心を燃やすことができ、対戦するのが本当に楽しみでした》という長嶋茂雄終身名誉監督の言葉通り、巨人戦でこそ最も燃える男。マウンドで吼え、一球に魂を込めて、V9時代の最強巨人を相手に、35勝31敗と勝ち越している。当時、中日の投手コーチを務めていた杉下茂氏が、星野氏の思い出をこう語る。「仙一の思い出は山ほどありますが、忘れられないのは1974年のリーグ優勝。祝勝会でビールを頭から浴びながら、“日本シリーズなんて邪魔だ! 巨人に勝って優勝したことがうれしいんじゃ!”と叫んでいました」

■中日ドラゴンズでリーグ優勝

 そんな星野氏が、39歳にして中日の監督となったのが87年。翌88年には、見事にリーグ優勝を果たした。その星野政権で90年代後半に入って頭角を現したのが、96年、07年と2度の本塁打王に輝いた山崎武司氏だ。99年には星野氏の2度目の優勝に貢献したが、当時は「監督と確執がある」と書き立てられもした。山崎氏が当時を述懐する。「僕は立浪(和義)さんや中村(武志)さんみたいに早くから一軍に定着したエリートじゃないから、“オレは、みんなほどかわいがられない”という気負いもあって、教え子の中ではベタベタするタイプじゃなかった。監督も“かわいくない奴やな”と思ってたんじゃないかな(笑)。人一倍、厳しい言葉をかけられた気がします」

 リーグ優勝した99年9月26日の阪神戦で山崎氏がサヨナラ3ランを放ち、一塁に走りながらベンチの星野氏に向かって、「オッサン! オレを出しとけば、ちゃんと打つんじゃ~!」と叫んだ話は語り草だ。「“日本シリーズには出さん!”と言われて、若かったのでカッと来たんです(笑)。そうして僕の闘争心をかき立て、発奮させていたのだと思います。ご本人が反骨の人でしたから、僕の中にも、そういう部分を見ていたんでしょうね」(前同)

 優勝の日、星野氏はその2年前に病で他界した夫人の写真をポケットに忍ばせ、神宮球場の夜空に舞った。「奥様とは学生時代に神宮球場で出会い、監督の猛アタックで交際、結婚にこぎつけたんです。その神宮での胴上げということで、さすがに、この日は“闘将”も男泣きしていたのを覚えていますよ」(専門誌記者)

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