■阪神タイガースでも優勝

 このまま「生涯中日」を貫くものと思われていたが、星野氏は01年オフ、突如、ライバル球団である阪神の指揮官となった。就任2年目には、25人もの選手を入れ替える大改革を断行。阪神をまったく新しいチームに作り替えた。当時のエース・藪恵壹氏がこう振り返る。「僕は中村勝広、藤田平、吉田義男、野村克也、星野仙一、岡田彰布という6人の監督のもとで野球をやって来ました。その中で、星野さんが最も厳しく、最も阪神に大きな改革をもたらした監督です」

 それまでの阪神は一、二軍の入れ替えも少なく、レギュラー陣にも競争意識はなかったという。しかし、あまりに有名な「勝ちたいんや!」という言葉を掲げた星野氏の改革によって選手に危機感が生まれ、“ダメ虎”を返上した。藪氏も、星野監督によって、投手として生まれ変わった一人だ。「星野さんが初めて“完投なんか狙わんでええ、行けるとこまで行ったら後はリリーフ陣でなんとかする”と言ってくれたんです。今は当たり前ですが、当時はまだ、そういう考えは一般化していませんでした。その言葉で、自分のマウンドを全力で投げ切ることができたんです」(前同)

 言葉だけでなく、徹底的に高めた得点力も投手を助け、03年の阪神は87勝51敗とぶっちぎりの成績で、18年ぶりに優勝。それ以降は上位争いの常連となる。

■北京オリンピックの代表監督に就任

 この優勝の翌年には、監督を退任。球団のシニアディレクターに収まったが、07年には北京五輪の代表監督に就任。「金メダル以外いらない」とぶち上げるも、本大会では4位に終わった。「緊張からかエース・上原浩治をはじめ不振にあえぐ代表選手が出る中、“選手を入れ替えてはどうか”との声も出てきましたが、星野さんは“ここで替えたら、彼らの野球人生はどうなる!”と断固拒否。上原には“どんなに不調でも、お前を選ぶ”と電話していました」(スポーツ紙デスク)

 準決勝の対韓国戦で3失点に絡む2失策、3位決定戦でも3失点に絡む失策を犯し、“世紀の失策”と呼ばれたGG佐藤を使い続けたのも、同じ理由だ。「今後のために、挽回のチャンスを与えたかったんでしょう。甘いかもしれませんが、星野さんは、そういう優しい人でしたよ」(前同)

■田中将大の活躍もあり、楽天を日本一に!

 生涯最大の挫折を味わった星野氏だが、10年10月27日、楽天の監督に就任。最後の大勝負に挑んだ。「当時の楽天は今よりはるかに弱く、周囲の人々も“これまでの経歴に傷がつく”と反対したようですが、野球への愛が反対の声をねじ伏せたんです」(前同)

 就任1年目の楽天はリーグ5位に沈むも、13年には田中将大(現・ヤンキース)の24戦無敗という獅子奮迅の活躍もあり、リーグ優勝どころか、宿敵・巨人を破って日本一に輝いた。「僕は11年で退団したので、その輪の中にはいられませんでしたが、震災後の東北が盛り上がってうれしかったし、チームに“勝ち”への執念を教えてくれたことに、とても感謝しています。今は“ありがとうございました”という気持ちしかないですね」(山崎氏)

 野球人として頂点を極めた星野氏。しかし、実は、まだまだ果たせていない大きな夢があったという。「彼は、ずっと“プロとアマの垣根を壊して、球界をもっと活性化させたい。もっと多くの選手に光を当てたい”と願い、アマチュア球界とも積極的に交流していた。殿堂入り記念パーティに、数百人のアマ関係者がいたこともその表れです。そのために、日本野球機構のコミッショナーに就任することも考えていたようです。常に、野球の未来を考えていた人でした」(星野氏と親しい明治大OB)

 優しき闘将の、惜しまれる死。しかし、その志は、必ずや次代に受け継がれていくだろう。

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