把瑠都(元大関)「子どもに“人生楽しいよ”って話せるように生きていたい」挑戦する人間力 の画像
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 初めて、相撲を見たのは15、16歳のとき。テレビで見ると、ポーンとやってポーンと倒れるから、すごく簡単そうに見えた(笑)。

 エストニアでは、柔道をやっていたんですが、ちょうどその頃に、エストニアに相撲協会ができて、相撲を始めてみたら、国内の大会で優勝したんです。そこで、日本で相撲をやってみないかと声をかけられた。うちは、お母さんが一人で兄弟3人育てていて、すごい大変だった。

 大学に通う費用を稼ぐために、夜中にナイトクラブのボディガードとかして、朝から大学に行くような生活。どっちかを辞めなきゃいけないなと思っているときだったので、お母さんに苦労をかけたくないし、自分一人で生活できるようになりたかったので、19歳で日本に行く決心をしたんです。

 いざ、日本での生活が始まると、言葉もわからないし、食べる物も違うし、稽古はキツイ。もう一人一緒にエストニアから来た人がいたんだけど、その人は半年ぐらいで逃げちゃった。正直、私も逃げようと思ったことはあります。でも、エストニアに帰っても、将来が見えなかった。だったら、せっかくここまできたし、がんばってみるかなと。簡単に強くなる方法はないかなってずっと考えていたけどね(笑)。

 当時は携帯があったけど、部屋で禁止されていたし、テレビを見ても何をしゃべっているかわからない。お母さんに手紙書いたりしたけど、それ以外にやることもないから、暇だったんですよ。それで、稽古後に一人で残って練習をよくやっていました。やっぱり、早く強くなりたかったんですよ。

 最終的には、大関にまでなれたけど、それは本当に奥さんのおかげ。幕下のときに初めて会ったんだけど、それから、ケガで引退するまでずっと支えてくれた。奥さんがいなかったら、私はダメな人間になっていたかも(笑)。少なくとも大関にはなれなかったですよ。

 よく聞かれるのは、なんで親方にならなかったのって。単純に10年、相撲をとったから、違うことをやってみたいと思った。同じ仕事を20年、30年も続けるなんて、みなさんには悪いけど、私にはとてもできない。そういうタイプの人間ですから。

 人間、一度きりの人生じゃないですか? 自分の人生だからこそ後悔したくないし、チャレンジしていきたいんですよね。子どもに、人生、楽しいよっていろんなストーリーを話せるように生きていたい。

 役者のお仕事も、私はお相撲さんのなかでもよくしゃべるタイプで、テレビも向いているんじゃないかと思ったから。今回、出演したドラマ『弟の夫』は同性愛のカナダ人役って聞いて、最初は“えっ”と思ったけど、あまり今まで触れてこなかった分野だったので、やってみたいなと。

 実際に原作者の田亀源五郎先生にもお話を聞きにいったんですが、みんな同じ人間だから作る必要はないからって。だから、特に作り込むことなく気楽にできました。

 役者のお仕事もそうですが、新しいことにチャレンジするときは、もちろん私だって怖いんですよ。でも、その姿をみんなに見られたくないので、誰に相談することもなく、自分のなかで、一手一手を考えていく。

 最終的には失敗したとしてもアルバイトすればいいし、恥ずかしいことは何もない。それに、支えてくれる奥さんもいますから。

 これからも、チャレンジャーとして、いろんな方面で“がんばると”で行きたいなと思います(笑)。

撮影/弦巻勝

把瑠都 ばると
1984年、エストニア生まれ。本名はカイド・ホーヴェルソン。少年時代に柔道で頭角を現し、高校生のとき相撲に挑戦。19歳でスカウトされ、来日。四股名は、エストニアが面するバルト海にちなんでつけられた。04年に初土俵。2メートル近い巨体と、角界のディカプリオと呼ばれる甘いマスクで一躍大相撲界の人気者に。10年には大関に昇進。12年1月場所で幕内優勝を果たす。13年に左ひざ靭帯を損傷し引退。その後、旅行業を営んだり、格闘家として『RIZIN』に出場。現在はタレント、俳優業も行うなど多方面で活躍中。

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