桶狭間は騙し討ちだった? 信長&秀吉「教科書には載っていない」奇説戦国史の画像
桶狭間は騙し討ちだった? 信長&秀吉「教科書には載っていない」奇説戦国史の画像

 GWなどの長期休暇には各地の城跡に多くの戦国時代ファンが訪れる。戦国ブームはなお一層加速し続けているが、巷間イメージされている武将や合戦には、意外な珍説・奇説があることも。

■桶狭間は「騙し討ち」だった説

 織田信長による天下統一の第一歩となったのが、3万の兵を従えた今川義元をわずか3千の兵の織田軍が破ったといわれる桶狭間の戦い。織田軍をナメきった今川軍が戦勝の前祝いで酒宴を開いているところを奇襲で襲ったといわれている。

 当日、今川軍は突然豪雨が降り出したので陣の備えを崩してバラバラに移動していたところ、織田軍が嵐のように殺到し義元を討たれてしまったというのが現在伝わっている奇襲の全容。

 しかし、これらはすべて勝ったほうの織田側が一方的に残した史料によるもので、不自然な点も多いという。前夜、東海道の北の沓掛(くつかけ)に泊った義元が、なぜ東海道西外れの桶狭間に行ったのか、なぜ、挟間や山の上で酒宴を開いていたのか? ベストセラー小説『信長の棺』の著者、加藤廣氏も秀吉演出による「騙まし討ち説」説を唱えている一人だ。

 和睦を申し込んだ織田方との交渉のため武装解除し酒宴を開いたところを、秀吉の手のものが、ゲリラ的に襲いかかった、というのが真相か。

■本能寺には「秘密の抜け穴」があった説

 これも小説『信長の棺』で作者の加藤廣氏が展開している説。京都市内の南蛮寺に通じていたという。

 従来から信長はなぜ無防備な「本能寺」に本陣をおいていたのか、については疑問の声が上がっていたが、信長がこの「抜け穴」を過信していたとすれば説明はつく。しかし、そうだとすると、抜け穴がありながら、光秀に討たれたことの説明がつかない。本能寺の変のおり、抜け穴は“何者か”によって塞がれていたというのが加藤氏の説なのだ。

■本能寺の変の黒幕は「秀吉&朝廷」だった説 

 “太閤”秀吉にも奇説あり。明智光秀謀反の要因は信長の冷遇やいじめにあるとするのが従来の説。ところが最近の研究によれば、光秀謀反の背景には朝廷の存在があるとする説が有力だ。

 天皇家や朝廷をないがしろにする信長の行動に危機感を抱いた一部朝廷勢力が、尊王の念を持っていたといわれる光秀に白羽の矢を立て、謀反をそそのかしたというのだ。このとき、朝廷側の黒幕として動いたのが、太政大臣の近衛前久。こうした朝廷や光秀の“不穏な動き”を事前に察知していたのが秀吉である。

 中国遠征で毛利と対峙していた秀吉が本能寺の一報を聞くなり、恐るべきスピードで京へ取って返す「中国大がえし」という離れ業をしてのけえたのも、事前に「謀反」の情報を得ていたからだとすると説明がつく。

 作家の加藤廣氏は『秀吉の枷』で、秀吉は光秀が謀反を起こそうが起こすまいが、その時点で信長に「見きり」をつけており、光秀の謀反に乗じて本能寺の抜け穴を塞いだ、つまり、光秀は信長殺しの未遂犯、秀吉こそが主犯という説を展開している。真相やいかに……。

■本能寺で信長を討った明智兵は「秀吉のスパイ」だった説 

 本能寺で信長を討ち取ったとされる人物が安田作兵衛国継である。「本能寺の変」の記録によれば、作兵衛は明智方の先頭に立って信長の寝所に入り障子越しに槍を突き入れたという。すると確実な手応えがあり、これが信長の致命傷になったというのだ。

 不思議なのはこの作兵衛が明智家滅亡後も生き長らえ、羽柴勝秀(秀吉の養子)、豊臣秀長(秀吉の弟)に仕えているという事実。作兵衛は秀吉の放った間者(=スパイ)だったのだろうか。

奇説戦国史

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