上杉謙信は女将だった!? 戦国時代「スキャンダラス奇説」の画像
上杉謙信は女将だった!? 戦国時代「スキャンダラス奇説」の画像

 GWなどの長期休暇には各地の城跡に多くの戦国時代ファンが訪れる。2020年の大河ドラマも明智光秀に決まり、なお一層戦国ブームが加速するが、武将や合戦にはスキャンダラスな珍説もあるんです!

■「信長=うつけ」の由来は、市姫に手を出したから?

 青年時代の織田信長が、その奇矯な行動から「うつけ」と呼ばれていたのは有名な話。うつけとは「大馬鹿もの」という意味だが、実は、そう呼ばれたのは、信長が絶世の美女とされる妹、市姫に手を出してしまったことが原因という説がある。

 この信長と市姫の相姦説は、古くからささやかれており、多くの作品でそれとなく暗示されている(NHK大河ドラマ『功名が辻』でもそうだった)。信長が市姫の夫・浅井長政を滅ぼしたおり、長男・万福丸を殺させたばかりか長政のドクロを金の酒杯にして部下に飲ませたという異常行動が伝わっているが、この背景として信長と市の相姦関係からくる憎悪があったと考えられている。

■豊臣秀頼は秀吉の子ではなかった説

 15人の側室を持ち、300人以上の女性と関係を持ったといわれるほどの女好きだった太閤秀吉だが、不思議と晩年まで子宝に恵まれなかった。唯一の例外が淀の方。鶴松、秀頼という2人の子をなしている。

 しかし今日では「秀吉は種無し」という説が有力で、2人とも秀吉の本当の子ではないと考えられている。気になる本当の父親だが、旧来より大野治長、石田三成、前田利長らの名前が上がっているが、蒲生氏郷の寵童(ちょうどう)で、美形の名古屋山三郎が秀頼の本当の父ではないかという説も浮上している。

■上杉謙信は女将だった説

 武田信玄のライバルこと“越後の虎”上杉謙信。彼はなぜか、生涯正室を迎えず、側室もとらず不犯を貫いた珍しい武将である。そんな謙信にささかれているのが「女将説」。

 理由は多数ある。

(1)明治期に出版された史書に「越後景虎大虫にて卒す」と記されているが、「大虫」とは女性特有の「更年期障害からくる婦人病」のこと。
(2)毎月10日前後になると「腹痛」で合戦をやめてしまったが、これは生理痛のためだと考えられる。
(3)謙信のトレードマークの頭巾姿は女性の座頭の象徴である(座頭とは目が不自由で琵琶や三味線の芸能、按摩などで生計を立てた人たちのこと)。
(4)スペイン国王フェリペ2世の家来が「謙信を上杉景勝の伯母」と報告している記録が残されている。
(5)謙信のことをつづった当時の文書に「男も及ばぬ」という表現がみられる。

 ……他にも数々の「状況証拠」があげられるが、お家断絶が最大の恐怖であった当時を考えると、上杉家存続のために男を装う必要があっても不思議ではない。

■天草四郎は秀頼のご落胤(らくいん)だった説

 島原の乱には、単にキリシタンの反乱というだけでは説明できない、多くの謎が隠されている。

 島原の乱の実相は豊臣の残党と徳川方の最後の決戦だったのではないか、という説もその一つ。この説の根拠となるのは、天草四郎の旗印である「瓢箪」。豊臣家の旗印「千成瓢箪」を思い起こさせる。

 実は、天草地方には、天草四郎は豊臣秀頼のご落胤(私生児)だという言い伝えが残っている。真田幸村や秀頼が生き延びて薩摩に逃れたという説もあるため、大阪夏の陣で散った豊臣方の残党が九州地方に落ち延びた可能性は否定できない。

あわせて読む:
・「参勤交代」は、江戸幕府を支えた優れたシステムだった!?
・サンドウィッチマン伊達みきおは、正宗の末裔!? 実は「戦国武将の子孫」だった有名人