徳川家康は二度死んでいた!? 「戦国時代の珍説」大集合!の画像
徳川家康は二度死んでいた!? 「戦国時代の珍説」大集合!の画像

 2020年の大河ドラマが長谷川博己演じる明智光秀に決まり、さらに加速することが予想される戦国ブーム。長期休暇には各地の城跡などに観光客が訪れるが、「徳川家康は2度死んだ」「斎藤道三は2人いた」などなど、武将たちには珍説・奇説があることはご存知?

■明智光秀=“怪僧”天海説

 徳川家康の後半生に彼のブレーンとして活躍したのが“黒衣の宰相”天海僧正。しかし、この人物、生い立ちがいま一つはっきりしない。天海は弟子達に出自を聞かれた時に次のように答えている。

「出身地も俗名も成年も遠の昔に忘れてしまった」。

 つまり彼は、生年でさえ隠さなければならないほどの“秘事”を抱えていたということなのだ。こうしたことから、「実は天海の正体は明智光秀」との説が、他ならぬ当時、幕府の内部で囁かれていたという。

 天海=光秀を裏づける証拠は枚挙に暇がない。天海は天台宗の僧侶として、信長のジェノサイドで荒廃していた比叡山と光秀の領地であった近江の国坂本の復興に尽力した点。比叡山近くの堂に「奉寄進 願主光秀」の石碑がある点。神君・家康を祭った日光東照宮には明智家の家紋である桔梗紋を身に着けた人物が安置されている点。日光・華厳の滝周辺を一望できる絶景を「明智平」と呼ぶ点……がそれだ。

 しかし、最大にして決定的な証拠は、天海大僧正の諡号(戒名)が慈眼であることだ。同名の京都の慈眼寺には、光秀の戒名が記された像が安置されているのだ。これはやはり……!?

■石田三成は死ななかった説

 関ヶ原の戦いに破れた西軍の大将・石田三成は、一人で山越えしようとしたところを徳川方に捕えられ、京都六条河原で処刑されたと公式には伝えられている。しかし、三成ほどの武将が一人で逃げることは考えにくい。小早川秀明の裏切りによって、勝敗の行方が決した頃、三成は戦場から逃亡したという説がある。

 三成は三人の供とともに農家に身を隠した後、出羽国(秋田県)の佐竹義宣のもとに身を寄せた後、出家したという言い伝えが当地に残っている。

■徳川家康は2度死んだ説

 堺南宗寺に次のような話が伝わっている。徳川家康は大阪の陣のおり、真田幸村隊に迫られ身の危険を感じて棺の中に隠れて逃亡しようとした。ところが、「この棺は怪しい」と感じた後藤又兵衛がこの棺を槍で突き刺してしまった。中に家康がいることは露見しなかったが、家康は重傷を負って絶命してしまったという。

 この事実を公表するわけにはいかなった徳川方は急遽、“替え玉”を立てた。翌年、有名な天麩羅事件(鯛の天麩羅を食べたのが原因で死亡)で世を去ったのはこの“替え玉”の家康だったのだ!

■斎藤道三は2人存在していた説

 一介の油売りから身を起こし、美濃の国主にまで登り詰めた斉藤道三の生涯は、司馬遼太郎の『国盗り物語』などで、広く世間に知れ渡っている。しかし、最近の研究によれば、道三が成し遂げたといわれている業績は道三と彼の父、つまり親子二代で築き上げたものだというのが定説。

 つまり、妙覚寺の住職から油商人となり、西村から長井へと名を変えて仕官したというのは、すべて道三の父の経歴。父の後を継いで、長井家を乗っ取り、美濃の国主となったのが道三の本当の経歴。美濃のマムシと呼ばれた傑物は、油売りから一代で身を起こしたわけではなかったのだ。

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