■中国訪問で日中戦争に触れて

 平和を強く願う陛下の視線は、旧日本軍と戦火を交えた国々にも向けられた。たとえば中国。92年に歴代天皇として初の訪中を果たした際、陛下は日中戦争に触れ、「深く悲しみとするところ」と述べた。「そんな陛下の真摯なお言葉に、沿道からは“歓迎!”との声が上がっていたことを今でも覚えていますよ」(皇室担当記者)

 また、昭和天皇に次いで戦後2回目となる天皇訪米(94年)を実現した際には、「実は、旧日本軍の奇襲攻撃を受けたハワイの真珠湾での慰霊を強く望んでおられました。しかし、残念ながら調整がつかず、断念せざるをえませんでした」(宮内庁関係者)

 そんな陛下の平和への願いは、兵士や民間人が旧日本軍に抑留され、かつて昭和天皇が訪問した際には、車列に魔法瓶が投げられたオランダでも同じだった。2000年5月、訪蘭した陛下は、現地の戦没者追悼記念碑に献花し、1分間の黙とうを捧げている。「その天皇のお姿が現地に大きな反響を呼びました。ある大学では“天皇、皇后両陛下、コーヒーはいかがですか”と、両陛下の訪問を歓迎する日本語の垂れ幕が下がりました。このとき、皇室とオランダ王室の距離が一気に縮まり、雅子さま(皇太子妃)が体調を崩されたとき、オランダ王室が静養のために離宮を提供したほどです」(前同)

■災害や疫病・飢饉対策も

 国民の平和を脅かすのは戦争だけではない。特に日本列島は、幾度となく天変地異などの災害で、命の危険にさらされてきた。「歴代天皇の大きな仕事は、災害や疫病・飢饉対策だったと言っても過言ではありません。どの時代の天皇も、写経などを行って民の平和を願っていたんです。今上天皇は、戦国時代に即位した後奈良天皇の写経から滲み出る“民を想う精神”を尊んでおられます。それはまた、“国民と苦楽をともにする”ことにも通じます」(跡部氏)

 陛下が初めて被災地入りしたのは91年。雲仙・普賢岳が噴火したときだ。「陛下は救援活動に支障があってはいけないというお考えから、随行の人数を最小限に絞るよう指示なさいました」(皇室担当記者)

 続いて2年後の北海道南西沖地震、95年の阪神大震災でも被災地入りしている。「阪神大震災以降、背広を着用しないのが被災地入りする際の陛下のスタイルとなりました。それより何より、雲仙・普賢岳の被災地訪問以来、陛下は膝を床の上につき、被災者と同じ目線で言葉を交わされています。これまでの天皇陛下にはなかったことです」(前同)

 天皇の歴訪は先方からの招待が基本だが、先の戦没者慰霊とともに被災地訪問は、例外として陛下の希望が反映されるという。そんな陛下のお気持ちが強く表れたのが、11年3月に起こった東日本大震災だった。まず発生の5日後、陛下がビデオ映像で「被災した人々が決して希望を捨てることなく、体を大切に明日からの日々を生き抜いてくれるよう」にと、国民全員にメッセージを送った。天皇が国民へじかに語りかけるのは、昭和天皇が終戦をラジオで伝えた「玉音放送」以来のことだ。しかも、自ら原稿を作成し、「途中で大きな余震などの緊急情報が入ったら放送を中止してください」という配慮も忘れなかった。

 それだけではない。3月30日、福島の人たちが身を寄せて避難所となっていた東京武道館(東京・足立区)でのお見舞いを皮切りに、陛下は4月から5月にかけて立て続けに被災地や避難所を回った。「避難所ではスリッパをはかず、被災者と同じ靴下姿で、お見舞いする場面もありました。また、移動中もバスの中で立ったまま、被災者に手をお振りになっていました」(同)

 ふだんの生活でも、「福島第一原発の事故で計画停電が実施されると、御所でも“自主停電”をされました。陛下の体調を気遣う意見も出る中、“大勢の被災者が苦しみ、電源すらない人もいる。体調を気遣ってくれるのはありがたいが、寒ければ厚着すればいい”という趣旨のお言葉がありました」(同)

 しかし、激務が重なったためか、同年11月、気管支肺炎で2週間以上入院することになる。同じ月にブータン国王が来日した際、陛下が初めて国賓歓迎行事を欠席したのは、そのためだった。03年に前立腺を全摘した陛下は、東日本大震災の翌年の3月、心臓のバイパス手術を受けている。「そのバイパス手術は肺炎を患ったことと関係しています。というのも、主治医から心筋梗塞の危険を指摘されていたからです。大震災1周年の追悼式には、なんとしても出席する、それまでに間に合わせたいという強いお気持ちがあったからです」(全国紙記者)

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