■モンゴル人力士で初となる遊牧民の出身

 逸ノ城駿。モンゴル・アルハンガイ県出身の25歳。遊牧民としてゲル(移動式住居)に住んでいた彼は、幼い頃から家畜の世話や水汲みなどの仕事をして、一家を支えていた。ブフ(モンゴル相撲)や乗馬で体を鍛えていた中学時代は、ブフの県大会で優勝。17歳のときに鳥取城北高相撲部の石浦外喜義氏に見い出され、同校に相撲留学。5つのタイトルを獲得し、卒業後は同校の相撲部コーチを務めながら、鳥取県体育協会の職員として社会人生活を経験した。13年、実業団横綱に輝いたことをキッカケに、14年初場所、幕下付け出しで湊部屋から初土俵を踏んだ。

――モンゴル人力士としては、初となる遊牧民の出身ですね。

逸 横綱・白鵬関をはじめ、だいたいの力士が首都のウランバートル出身ですからね。僕が育ったアルハンガイ県は、ウランバートルから西のほうに450キロ離れていて、大草原の真ん中で暮らしていました。400頭以上いる家畜の世話と水汲みをするのが、僕の仕事です。一つの場所にいると、家畜の食べる草がなくなってしまうから、遊牧民は春、夏、秋、冬と1年に4回、場所を変えながら生活するんですよ。そういう生活を送ったことで、足腰が鍛えられたんでしょうね。

――ゲルの中に電化製品などはあるんでしょうか?

逸 電気はソーラーパネルで作ってるんですよ。もちろん、テレビもあって、日本の大相撲は毎場所、見ることができます。子どもの頃に憧れていたのが、当時、ものすごく強かった朝青龍関。かっこよかったなぁ(笑)。その後、白鵬関が強い時代になってきたんですけど、まさか自分が大相撲の道に進むなんて、思ってもいませんでした。体は大きいほうだったので、ブフの県大会で優勝したことはあるんですけど、素質があるとか、強いとか、そういうレベルじゃなかった。運命が変わったのは、17歳で出た相撲大会。ウランバートルであった相撲留学生を選抜する大会で優勝して、鳥取城北高への留学が決まったんです。

――大草原から、いきなり日本へ。戸惑いはなかったですか?

逸 もう、それはビックリすることの連続です。日本には高いビルがたくさんあるし、夜はいつまでも明るいし、コンビニとかのお店も開いている。今の照ノ富士関、水戸龍関(十両)と一緒に日本に来たので、モンゴル人の留学生仲間はいたんですが、日本語が全然、分からない。モンゴル人同士で話していると日本語を覚えられないからという理由で、しばらくすると「モンゴル語禁止令」が出たほどでした(笑)。

■納豆を食べないと強くなれないと言われて

――食事は、どうでした?

逸 自分は“食いしん坊”のほうですから、意外に大丈夫でしたよ。ゴハンをたくさん食べるために、寮の食事では納豆が欠かせないんですが、「エッ、これ、何?」って、さすがに最初は戸惑いましたね。でも、相撲部の先生から、「納豆を食べないと強くなれないんだぞ」と聞かされて、毎日食べているうちに、いつの間にか好きになっていましたね。でも、カレーだけは昔から食べられないんですよ。あのスパイシーな香りが、どうも苦手で……。

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