■編集プロダクションを始め、新雑誌を立ち上げたが……

 最初の出版社を1年も持たずして辞め、そこの営業マンと友人を誘い合わせ、橘は編集プロダクションを始めた。

 ティーンズ雑誌の草分けだった(主婦の友社の)『GALS LIFE』が衝撃的で、編集部に企画書を持っていって、一緒にやろうよと言ってもらったんですが、別の出版社から呼び出され、専務にその企画書を見せたら、『GALS LIFE』の二番煎じでいいから1カ月で創刊しろと言われました。デキ婚で子供が生まれたばかりなのに、忙しくて家には帰れないし、制作費も安くて、給料は月10万円、年収120万円です。

 その頃、電通の雑誌で経営者インタビューをさせてもらっていて、そのギャラが給料の3倍もらえたので、ようやく食いつなげていけました……。暴走族の取材で徹夜した後に、ホンダの会長のインタビューで、黒塗りの車で送り迎えしてもらったりとか、ワケが分かんないですよ(笑)。

 しかし、立ち上げた『キャロットギャルズ』も3号で廃刊。というのも、当時大流行していた、そうした過激な少女向け雑誌が国会で槍玉に上がり、主要誌は編集方針を転換して生き残ったが、同誌にはそれだけの体力がなく、橘の編プロも解散の憂き目に遭った。

 国会で問題にされたことには感謝してるんです。地獄のような生活から解放されたばかりか、「休刊は売れなかったからじゃない」と言い訳できましたから。

 次に仕事したのは宝島社(当時はJICC出版局)ですが、最初は社員でもなんでもなかった。入ったのが25歳くらいで、周りもほとんどが同世代。会社に行くより大学のサークルに行くみたいな感じでした。『宝島』本誌には、映画評論家になった町山智浩君もいて、若くて勢いがあった。

 JICCの本体は地方自治体相手の出版物を作ってたんですが、ある日突然、会社の収益の9割以上を占めていたその事業には将来性がないとして、全面的に撤退することになった。他部門からの異動で編集部が膨らみ、いろいろ教えてるうちに、口約束で働いている部外者なのに部下が何人もできて管理職になってしまった。

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