2004年の球界再編騒動の副産物として生まれたセ・パ交流戦も、今年で14回目を迎えた。プロ野球がセ・パに分かれたのは1950年だから、2リーグ制になって68年がたつ。そこで今回は2リーグ分立秘話を紹介したい。

 2リーグ制の旗を振ったのは“プロ野球の父”と呼ばれる正力松太郎(当時は日本野球連盟名誉総裁)である。「日本にも二大リーグを作りたい。日本野球の完全な発達をめざすには、やはりアメリカのごとく二大リーグを対立させた方がよいと思う。もちろん八球団では足りないから、もう四球団ふやしたい」(『読売新聞』1949年4月17日付)

 エクスパンション(球団拡張)による2リーグ制が戦後のプロ野球を隆盛に導いたのは言うまでもない。その意味で、正力には先見の明があったということだ。新規参入球団にとってネックとなったのは連盟への「加盟金」1000万円だ。1950年と言えば、大卒公務員の初任給が4200円の時代である。このベラ棒に高い「加盟金」を決めたのは松竹オーナーの(当時)の田村駒治郎で、「新球団は早く加盟金を支払え、経営できぬなら解散するのもいたしかたないじゃないか」(『カープ風雪十一年』河口豪著・青志社)と毒づいたという。

 だが、この1000万円という金額は、いかにも根拠に乏しかった。国鉄(現東京ヤクルト)に至っては「セントラル球団用のタタミを敷いた寝台車を二台提供」(『中国新聞』1969年12月3日付)することで手打ちになったという。いい加減と言えばいい加減な時代である。結局、新規参入の球団は、どこも1000万円の支払いに応じなかった。広島、大洋、西日本の3球団は300万円で打ち切ったというのである。

 もし「ルールはルール」とばかりに既存球団が1000万円の線を譲らなかったら、先述の球団は新規参入できなかった可能性が高い。参入障壁が業界の発展を阻害しているのは今も昔も同じである。

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