■徳川家康、実は派手好き

 さて、その信長や、後を継いだ豊臣秀吉の築いた天下を完成させたのが、徳川家康。ド派手な2人に比べると、家康は質実剛健で地味な印象があるだろう。「しかし、それは天下を取るまでのこと。ガマンを重ねて天下人となった家康は、信長の安土城、そして秀吉の大坂城をはるかに凌ぐ城を築いたんです」(前同)

 それは、家康が幼少期を過ごした駿河(現在の静岡県)に築いた駿府城だ。「征夷大将軍の座を2代秀忠に譲り“大御所”としてこの城に入った家康は、掘割を整備し、駿河湾から船で城郭内に入れるように大工事を敢行。天守閣の土台である天守台は、西辺約68メートル、北辺約61メートルで、江戸城の天守台(西辺約45メートル、北辺約41メートル)を大幅に上回る巨城だったことが、県の発掘調査で判明しました。天守閣は建造後に火事で焼失しましたが、残っていたら現在の静岡県庁の21階と同じ高さといわれています。外壁も白亜に輝いていたという、日本一ゴージャスな城ですね」(同)

 死後に建立された日光東照宮も、かなりの豪奢さであることを考えると、“実は派手好き”と言われてもうなずける気がする。

 その家康が打ち立てた徳川幕府の支配を終わらせた中心人物が、今年の大河ドラマ『西郷どん』の主人公・西郷隆盛(隆永)だ。がっしりした体格にクリクリの目、鷹揚な人格で誰からも愛された――そんな西郷どんをドラマでは鈴木亮平が好演しているが、その実像は、かなりの“危険人物”であったようだ。「武力で幕府を倒そうと考えた西郷は、朝廷から倒幕の密勅(密かな命令)を得て、幕府の威信を地に落とすため、江戸で破壊・撹乱工作を行いました。のちに赤報隊を結成する相楽総三に命じて、江戸市中で放火や強盗、ときに辻斬りなどを組織的に行い、世間を不安に陥れたんです」(前出の幡ヶ谷氏)

 だが、武力倒幕の動きを察した15代将軍の徳川慶喜は、いち早く幕府の権力を朝廷に返還。いわゆる“大政奉還”によって戦禍を避ける英断を下し、倒幕の密勅も取り消された。「しかし、西郷はさらなる破壊工作を開始。江戸の薩摩藩邸に500人近い浪士を集め、略奪や放火活動を加速させます。幕府を助ける商人と諸藩の浪人、志士の活動の妨げになる商人と幕府役人などが標的でしたが、最終的には薩摩と関係のない盗賊や辻斬りなども便乗し、江戸は騒乱状態になったんです」(前同)

 幕府側の庄内藩邸にも銃弾が撃ち込まれ、もはや無法地帯と化した江戸。テロ行為の数々を見かねた幕府側は犯人の引き渡しを求めたが、薩摩藩は拒否する。1868年1月18日、ついに幕府側諸藩は薩摩藩邸を焼き討ち。大規模な戦闘となり、薩摩藩士や浪士が64人、旧幕府側では上山藩が9人、庄内藩が2人の死者を出す惨事となった。「しかし、これは西郷の策でした。挑発に乗った幕府側に先に手を出させ、武力倒幕の口実ができたことで、戊辰戦争へと日本を引きずり込んだんです」(前同)

 戦争の結果は周知の通りだが、戦後の会津などへの処置は苛烈を極めたのに対し、思惑通りに戦争の火蓋を切ってくれた庄内藩に対しては、西郷はやけに寛大に接し、ほぼ無罪放免。「そのため、庄内では仇敵のはずの西郷が、やたら敬愛されるようになり、西郷の言葉を記した『西郷南州翁遺訓』が庄内藩士によってまとめられ、『南州神社』という西郷を祀った神社が建ったほど。洗脳かと思うほど敵をコロッと味方にしてしまうあたり、単なる人格者ではない底知れなさというか、恐ろしさを感じますね」(歴史専門誌記者)

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