■戦国武将の上杉謙信は270億円もの黄金を…

 単なる人格者ではないのは、戦国時代随一の戦上手にして“義将”として知られる越後(現在の新潟県)の上杉謙信も同じ。その人格を表す有名なエピソードに「敵に塩を送る」というものがある。

 あるとき、信濃(現在の長野県)北部の領土を巡ってたびたび争った宿敵の武田信玄が、同盟国だった駿河の今川家、関東の北条家と敵対関係となり、両国からの塩の輸入が止まった。信玄の領地・甲斐(現在の山梨県)には海がなく、塩が採れない。民はさぞかし困っているだろう――と思った謙信が、武田領に塩を送ったという美談だ。

「ですが、当然、そう単純な話ではありません。謙信は武勇に優れる一方、非常に商才もあった人物。直江津や酒田など領内の貿易港で関税を徴収したり、衣類の材料になる海藻や、上質な麻糸で作った越後上布という布を海路で京の都に輸出して大儲け。死ぬまでに2万7000両(約270億円)以上の黄金を貯め込んでいます。そんな彼が、塩不足で困っている=塩の値段が上がっている隣国を見過ごすはずはないですよね」(新潟県の郷土史家)

 謙信は、領内の商人に「どんどん塩を売れ」と、甲斐との取引を奨励。自分たちも儲かれば敵方にも感謝され、さらに義将として名も上がるという“一石三鳥”を手にしたのだ。

 そんな謙信と関東の覇権を巡って激しく争った北条家の祖・北条早雲は、一介の素浪人から身を起こして一国を手に入れた、戦国時代の幕開けを象徴する人物として語り継がれてきた。「しかし、今はこの説は否定されています。早雲の本名は、伊勢盛時。父親は室町幕府の第8代将軍・足利義政と面会者を取り次ぐ“申次衆”という重要な役職についていました。早雲自身も9代将軍の申次衆になっており、相当な身分だったんです」(幡ヶ谷氏)

 やがて、応仁の乱の際に上洛した今川家の当主・今川義忠が姉と結婚。のち、その縁で駿河へと向かう。

「その後、足利家の内紛に乗じて伊豆一国に勢力を持ち、それを足がかりに関東を制覇していったのは事実ですが、これも早雲の独力というよりは、中央政界や今川家と連携を取りながらのもの。さすがに、ただの素浪人では、この動きは取れなかったでしょう」(前同)

 低い身分から成り上がったといえば秀吉と早雲というイメージも強いが、現実は甘くないということか。

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