松坂大輔、王貞治、田中将大…夏の甲子園100年「熱闘!名勝負」の画像
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 夏の高校野球を彩ってきたのは数多くのドラマと球児たち。第100回大会を記念して、伝説の試合を厳選回顧!

 今年のプロ野球オールスターのファン投票、セ・リーグ先発投手部門で39万4704票もの支持を集め、トップに立ったのが中日の松坂大輔だ。西武やメジャーでの活躍もさることながら、彼がいまだに絶大な人気を獲得しているのは、何より横浜高校の豪腕エースとして、夏の甲子園で大活躍した姿が強く記憶に残っているからだろう。

 松坂がその怪物ぶりを見せつけたのは、98年の第80回大会。準々決勝の横浜対PL学園戦だ。試合は、両者譲らず5対5のまま延長戦へ。11回表と16回表に横浜が1点を入れてリードするが、そのたびにPL学園が追いついた。「17回表に横浜が2ランホームランで突き放すと、ついにPLは力尽き、3時間37分に及ぶ激闘に終止符が打たれました。2人の投手を継投させたPL学園に対し、松坂は一人で17回を完投。その鉄腕ぶりにあらためて注目が集まりました」(スポーツ紙デスク)

 翌日の準決勝でも1回を投げ、逆転劇を呼び込んだ松坂は、決勝戦では京都成章高校を相手にノーヒットノーランを達成するという離れ業まで見せている。

 そんな怪物・松坂がまだ生まれる前にも、「怪物」と呼ばれた投手がいた。作新学院の江川卓だ。「栃木の作新学院に超高校級の投手がいる」という噂は全国に広がっていたものの、江川が甲子園に出場したのは3年生の春が初めて。ここで噂通りの剛速球を見せつけ、満を持して夏の大会に乗り込んだのだが、予想だにしない結末が待っていた。それは、73年の第55回大会。2回戦の作新学院対銚子商戦だ。実は、この両校は前年の秋の関東大会で対戦。江川に20奪三振を喫していた銚子商業は「打倒・江川」に燃えていたのだ。「銚子商は、積極的に作新学院に練習試合を申し込んで、江川のデータを集めていたそうです」(当時を知る元記者)

 しかし、江川を打ち崩すことはできず、0-0のまま試合は延長戦に突入。やがて甲子園に激しい雨が降ってくると、江川のピッチングが狂い始める。延長12回裏。四球、安打、四球で一死満塁となり、次の打者も3ボール2ストライクのフルカウント。この絶体絶命の場面で、江川はタイムを取り、野手をマウンドに集めた。「江川が“真っすぐ投げてもいいか”と聞くと、チームメイトは“お前の好きな球を投げろよ。俺たちがここに来られたのも、お前のおかげだから”と答えたそうです。この瞬間、江川が怪物、怪物と騒がれすぎたせいで、バラバラになっていたチームが再びひとつになったといいます」(前出の元記者)

 しかし、江川が投じた渾身のストレートは大きく高めに外れ、押し出し四球。作新学院はサヨナラ負けで、怪物・江川の高校野球は終わった。

 甲子園には江川以前にも、伝説の豪腕投手がいた。怪童と呼ばれた浪速商業のエース・尾崎行雄だ。「スピードガンのない時代でしたが、尾崎の球速は尋常ではなかった。唸るように飛んできて、浮き上がって見えたそうです」(同)

 61年の第43回大会。浪商対法政二戦は尾崎の集大成だった。尾崎は甲子園で2連敗中だった法政二に投げ勝ち、そのまま優勝した。

 伝説といえば、プロ入り後、世界のホームラン王となった王貞治も甲子園ですごい記録を残している。それは57年の第39回大会、早稲田実業対寝屋川戦でのこと。先発した2年生エースの王は9回までノーヒットピッチング。しかし、寝屋川の投手・島崎も負けじと好投し、試合は0-0のまま延長戦へ。そして11回表、早実が犠牲フライで念願の1点をもぎ取ると、王は、そのままノーヒットノーランを達成した。

「強打者のイメージが強い王さんですが、春のセンバツで3試合連続完封勝利するなど、2年生までは投手の活躍のほうが目立っていましたね」(前同) ちなみに、延長戦での無安打無得点試合は、春夏の甲子園を通しても、この1回しかない。

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