■原辰徳や荒木大輔など「アイドル選手」が活躍

 さて、夏の甲子園を盛り上げたもので、忘れてはいけないのが「アイドル選手」の存在だろう。100回の歴史の中で、多くのアイドル球児が登場してきた。その元祖とも言えるのが、三沢高校の太田幸司だ。太田は69年の第51回大会に出場。決勝戦・三沢対松山商戦の死闘は、今でもファンの語り草になっている。この試合は、速球派の三沢・太田と技巧派の松山商・井上による投手戦に。そして延長18回でも決着がつかず、甲子園決勝史上初の引き分け再試合が決定する。

 翌日行われた再試合では4-2で松山商が勝利したが、この試合でも太田は9回を完投。前日の18回と合わせて合計27回を一人で投げ抜いた。この太田の力投する姿、そして帽子の下の甘いマスクに日本中がクギづけ。太田の人気が沸騰していく。

 その太田以上に、甲子園のアイドルとして人気者となったのは、定岡正二と原辰徳だ。この2人は、74年第58回大会の東海大相模対鹿児島実業戦で激突している。「アイドル選手の代名詞的な2人ですが、対戦当時、鹿実の3年生でエースだった定岡、そして東海大相模の1年生で5番打者だった原は、2人とも全国区レベルではまだ無名。この試合から火がついたんです」(当時を知る関係者)

 この試合は延長15回の熱戦。軍配は鹿実に上がったものの、原は6打数3安打と大暴れ。定岡も213球の粘投を見せた。「この試合の視聴率はなんと30%超えで、延長に入り、中継が打ち切られると抗議の電話が殺到したそうです。それだけ2人の活躍が、人をひきつけたということでしょうね」(同) この大会を境に、定岡と原は、甲子園が生んだアイドルとして、かつてない人気を得ることになる。

 そして80年代に入ると、アイドルの中のアイドルとも言うべきスーパースター、荒木大輔が登場する。80年の第62回大会、早稲田実業の1年生投手として甲子園デビューを果たした荒木は、いきなり準優勝。それから3年間、全国に大輔フィーバーを巻き起こしたが、名試合との呼び声が高いのは81年の63回大会、早実対報徳学園の試合だ。報徳学園のエース兼4番打者だった金村義明氏は、こう証言する。「前年の優勝校・横浜を2回戦で破って、次の対戦相手が前年準優勝の早実。早実を倒せば、一気に優勝まで行けるという目算はありましたし、荒木の異常人気に対するジェラシーもありましたから、絶対負けないと闘志を燃やしましたね」

 試合展開は6回まで両チーム無得点。早実が7回表に3点、8回表に1点を入れて4対0となり、金村氏は「もう負けた」と思ったという。しかし、報徳学園は9回裏に粘りを見せる。ヒットを重ねて同点とし、10回裏にサヨナラ勝ち。絵にかいたような逆転劇だった。

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