山田花子
山田花子

 1978年にスタートしたチャリティ番組『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』(日本テレビ系)が、今年で第41回を迎える。92年の第15回に番組はテコ入れのためエンターテインメント化を図り、歌と音楽をテーマにしたプログラムに変わったが、チャリティマラソンもこのときに始まった。チャリティマラソンは放送が開始される土曜日の19時頃にスタートし、番組終了までにゴールの日本武道館を目指すのだが、約100キロにおよぶ過酷な条件下で行われるため、これまで、いろいろなアクシデントも生まれた。今回は初回から03年までのランナーたちのエピソードを振り返ってみよう。

 初代ランナーはお笑いタレントの間寛平で、新潟の苗場プリンスホテルからスタート。200キロの予定だったが、事前に経路を公開していたため、ひと目見ようと道路に人が殺到。交通の妨げになるとして、途中でリタイアになってしまった。また、複数回ランナーを務めているのは寛平だけで、2度目の第16回(93年)に次ぐ3度目となる第18回(95年)では、阪神・淡路大震災による被災地の復興を願うため、神戸市から日本武道館までの約600キロを1週間かけて走破した。

 第17回(94年)のランナーはダチョウ倶楽部で、肥後克広寺門ジモン上島竜兵が100キロを走ったのだが、その17年後、ビートたけしがスポーツ紙のインタビューで「昔ランナーをやったダチョウ倶楽部だって、“走ってなかった”って言ってたぜ」と、マラソン途中での車移動を暴露。「まあ、ダチョウのネタかもしれないけどな」と、冗談交じりで語っていたが、この年の第34回では、当時70歳だったフリーアナウンサーの徳光和夫がランナーに決まっていたため、高齢であることを心配した流れでの発言だった。

 第19回(96年)では、「つなげよう! 愛のタスキリレー 日本列島縦断3600キロ」と題し、一般参加者600人によるたすきリレーマラソンが行われ、元プロボクサーで俳優の赤井英和がアンカーとして100キロを走った。一般参加者の北ルートと南ルートが合流した地点でたすきを受け取る予定だったが、片方のルートが遅れた影響で赤井のスタートも遅れてしまい、ゴールも放映時間内に間に合わず。そのため急遽、放送時間を15分延長している。

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