■清原和博は西武ライオンズ黄金期に君臨

 素質を見込んだ柳田が活躍する一方、王が獲得できなかった天才打者も忘れてはならない。巨人監督時代、“涙のドラフト”で袂を分かつことになった清原和博だ。「王さんは、清原の打撃センスを非常に高く評価していました。巨人の1位は桑田真澄でしたが、王さん個人は、本当は清原を取りたかったのではないでしょうか」(前出のベテラン記者)

 結局、清原は西武に入団。石毛、平野、辻、秋山、デストラーデという、そうそうたるメンバーがそろった西武黄金期に、絶対的4番打者として君臨した。当時の監督・森祇晶が若き清原を主軸に据えた理由。それは打撃力よりも“4番の資質”だったという。

「森監督は後年、“彼ほどチームの勝利に喜びを感じていた選手はいない”と語っていました。自分の打撃よりチームの勝利を優先する清原の姿勢に、厚い信頼を寄せていたようです」(球団関係者) 清原は、よく“無冠の帝王”と呼ばれるが、常勝軍団の4番という厳しいポジションで結果を出してきたのは、紛れもない事実だ。

 さて、次は野村克也が認める「4番打者」だ。「あるテレビ番組で“最強の4番打者”を聞かれた際、野村監督は1位に王貞治、2位に落合博満の名前を挙げていました。王は分かりますが、次に落合の名前が出たのは意外でしたね」(スポーツライター)

 落合は、ロッテの主砲として、3度の三冠王を達成。この天才スラッガーは1986年オフ、世紀の大型トレードで中日へ移籍する。同年、中日監督に就任した星野仙一は、「一番大事な場面で一番ヒットが打てるバッター」と、落合の打撃にベタぼれだったという。「星野さんは、どうしても落合が欲しかった。ロッテと交渉するために、なんと現総理の父であり、当時の自民党の重鎮だった安倍晋太郎氏まで頼ったそうです。その執念は、就任2年目に優勝というかたちで花開きます」(前出のベテラン記者)

 その後、落合は94年にFAで巨人に移籍。在籍3年のうち2度、4番打者としてチームを優勝(うち日本一1回)に導いている。「松井秀喜も、4番で圧倒的な存在感を放つ落合に学ぶところが大きかったようです。落合の背中を見たからこそ、4番・松井が完成したともいえます」(前同)

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