■最初の妻と結婚したときに日本国籍を取得

 朝鮮半島出身の両親の下、戦前の大阪で生まれた山根氏は、6歳の頃に母親の故郷である釜山に帰った。その後、10歳の頃に日本への密入国を試みたものの、2度失敗し、強制送還された経験もある。3度目の挑戦で無事に入国を果たすも、日本国籍を取得したのは最初の妻と結婚した27歳のとき。つまり、その間の十数年間は、無国籍状態だったのだ。

「すでにお亡くなりになられていますが、山口組柳川組の初代組長・柳川次郎さんにお世話になったこともありましたよ。ケンカの仲裁に入ってもらってね。それから個人的に助けてもらっていたことは事実です。私が指導者として関わっていたときに、アマチュアボクシングの日韓戦で資金援助をしてもらったこともあります。ただ、柳川さんからも“アマチュアボクシングで生きていけよ!”と言われてましたから、反社会組織の世界に足を突っ込むようなことは、一切していません」

■力道山が見守る中でリングに

 今回の騒動に関する報道の中で、山根氏個人については、反社会組織関係者との交際のほか、“ボクシング未経験では”という点もまた、たびたび指摘されてきた。

「ボクシング経験がないというのは、まったくの嘘です。父親がボクシング経験者で、幼い頃から鍛えられてきましたから。実は、公式戦で戦った記録もあります。1956年に難波の大阪府立体育館で開催された東洋バンタム級タイトルマッチで、レオ・エスピノサと大滝三郎が戦ったんです。その前座で、リングに上がらせてもらっているんですよ。当時は無国籍状態だったので偽名でしたし、日本では16歳からデビューできるので、年齢も一つごまかして出場しました。その試合をリング脇でプロレス界のスーパースター・力道山が観戦していてね。本当はプロレスのほうが好きで、力道山の大ファンだったもんだから、思わずゴングが鳴る前に“大ファンです! 握手してください!”と声をかけちゃいましたよ。さすがに驚かれて“分かったから、試合頑張れ”と声をかけてもらって(笑)。そのときに撮ってもらった写真は、大事に残してあります」

 当時、山根氏の父親が大阪・堺にあるボクシングジムの経営に携わっていたこともあり、そのジムで練習をしていたという。“息子をボクサーにする”という父の夢を叶えようと努力を重ねたが、デビュー戦が事実上の引退試合となった。

「試合当日、私は高熱があって、フラフラな状態でした。それでも父は棄権させてくれなかったので、無理やりリングに上がったんですよ。でも、やはり試合ができる状態ではなかった。めまいがしてきて、結局、3ラウンドの終わりで棄権しました。病院に行ったところ、肺結核だったんです。当時、肺結核で死ぬ人が大勢いた中、不幸中の幸いにも、私は1年半入院して生き延びることができました」

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