■小久保裕紀は王監督の“4番道”に触れて…

 ミスターとともに巨人の4番を背負ってきたもう一人の男、王貞治(78)。彼はダイエー監督時代、4番打者として小久保裕紀(46)を育て上げた。「95年、監督となった王さんは、プロの壁にぶつかっていた小久保に、“背中がバリバリいうくらい強く振れ”と、スラッガーの英才教育を施した。これに小久保は猛練習で応え、才能が開花。この年、初の本塁打王を獲得しています」(スポーツ紙デスク)

 王監督が小久保に伝授したのは打撃理論だけではなかった。現役晩年、ケガに悩まされ、スランプが続いていた小久保が監督室を訪ねたときのことだ。「小久保は“4番を外してほしい”と頼んだそうです。しかし、王監督は“4番は簡単に変えるものじゃないんだ”と、これを一蹴。小久保を4番で使い続けた。その後、小久保はスランプ脱出に成功しますが、王監督の“4番道”に触れ、学ぶところが大きかったようです」(前同)

 ちなみに王には、84年からの巨人監督時代にも“将来の4番”を夢見ていた逸材がいた。「“50番トリオ”の一人、吉村禎章(55)です。才能があるうえに、とにかく練習の虫。王さんは“何事もなければ、吉村はONにも匹敵する、ものすごいバッターに成長していたはずだ”と大絶賛していました」(元巨人番記者)

 吉村は、81年のドラフトで巨人3位指名された。「大学進学かプロ入りかで迷っていた吉村に、当時まだ助監督だった王さんが直接電話。“一緒に野球をやろう”と説得し、入団を決意させています」(前同)

 そして、王監督就任1年目となる84年にレギュラーをつかみ、三拍子そろった好打者としてブレイク。原辰徳、クロマティとクリーンナップを背負う、巨人の主軸へと成長していった。しかし88年、当時25歳の吉村を悲劇が襲う。「札幌円山球場での試合中、外野フライを捕球する際、吉村は他の外野手と激しく激突。左ヒザ靱帯を3本切るという、選手生命も危ぶまれる大ケガを負いました。懸命のリハビリで89年終盤に復帰したものの、以前のような活躍は引退まで蘇りませんでした」(同)

 くしくも吉村がケガをした88年、“4番道”を伝授できないまま、王監督は辞任している。

  1. 1
  2. 2
  3. 3
  4. 4