高倉健と松田優作「俳優2大カリスマ」30年目のアウトロー秘話の画像
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 日本中を虜にした大スターと不世出のアクションスター。奇しくも11月が命日の2人の偉大な足跡と感動を大特集!

 日本最後の映画スターといわれる高倉健。先の11月10日が命日だった高倉だが、生涯に出演した映画は、デビュー作『電光空手打ち』(1956年・東映)から遺作『あなたへ』(12年・東宝)まで全205作品。ほとんどで主演を務めた。「55年の第2期東映ニューフェイスとなった高倉は、俳優座養成所で演技を勉強。主演デビューした56年に11本の映画に出演していますが、なかなかヒット作に恵まれませんでした」(当時の東映関係者)

 高倉本人も、「デビュー間もない頃は演技など、まったくできていなかった」と当時を振り返っている。演技経験の少ない若手俳優の起用を疑問視したのが、東宝から東映へ移籍してきた鶴田浩二だ。「演技ができない、セリフ覚えも悪い若手俳優に、鶴田が厳しく意見することがたびたびありました。鳴かず飛ばずの高倉たちは、このままでは自分たちはクビになると勘違い。鶴田を呼び出して、乱闘騒ぎを引き起こします」(前同)

 この喧嘩騒動は、『人生劇場 飛車角』(63年)の撮影前に東映幹部が仲立ちし、鶴田と高倉の手打ちで幕引きとなった。「飛車角を鶴田、その弟分を高倉が演じた映画は大ヒット。東映が任侠路線に転換した作品とされています」(当時の東映スタッフ)

 高倉を一躍、大スターに押し上げた作品が『日本侠客伝』(64年)、『網走番外地』(65年)、『昭和残侠伝』(同年)の任侠シリーズだ。「東映のトップスター、中村錦之助が『日本侠客伝』に主演する予定でしたが、諸般の事情で客演になり、東映上層部は高倉を抜擢。錦之助が高倉を推したともいわれています。任侠シリーズは高倉の代表作になりました」(前同)

 この『昭和残侠伝』の名セリフ「死んでもらいます」は流行語になり、劇中歌『唐獅子牡丹』もヒットした。

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