■NHK紅白歌合戦辞退でマスコミのバッシング

 ピンク・レディーの終幕は、これとは対照的だ。「人気が下火になった主因は2つあります。1つは絶頂期である78年の紅白辞退。これでマスコミのバッシングを受け、ファンが白けたんです」(音楽関係者)

 ケイは『あこがれ』(幻冬舎)という著書の中で、「都内の盲学校の生徒たちのためにコンサートを行う約束をしていたが、紅白出場者が決まる前の時点で、スケジュールが空いているのが大晦日の21時以降しかなかった」という秘話を明かしている。結局、そのコンサートは、日テレのチャリティー特番に組み込まれ、紅白の裏番組として放送された。

「2つ目は全米デビュー。日本での露出が減ったのはマイナスでした」(前同) だが、アメリカでの活動自体は成功の部類だった。

「デビュー曲はビルボード37位に。スタジオで水着姿になるなど、お色気が強調された内容だったが、全米ネットのゴールデンタイムに冠番組を持っていた。日本の歌手としては歴代最高の実績と言えます」(同)

 ただし、日本の某有名歌手と熱愛中だったケイが異国での継続した活動を望まなかったことで、再び日本に軸足を置くことになる。しかし、人気回復はならず、80年9月に解散宣言。翌年4月、キャンディーズと同じ後楽園球場で解散コンサートを行ったが……。

「客席に空席が目立ったうえに、当日はみぞれ交じりの雨。あまりに物悲しいものでした」(前同)

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