■ドラフトにも原全権監督の悪影響

 さらに、原全権監督の悪影響は、ドラフトでも見受けられたという。今年の巨人は、外れ外れ1位で八戸学院大の高橋優貴投手を獲得した。「高橋投手は東海大菅生高の出身。さらに八戸学院大の正村監督は、東海大出身で原監督の後輩なんです。“2位以下でも獲れる”という評価だった無名の高橋投手を、あえて1位で指名したのは、原監督おなじみの“東海大人脈”によるものだったと、もっぱらです」(スポーツ紙ベテラン記者)

 以前から、たびたび“お友達内閣”と揶揄されてきた原監督。ベテラン記者は長嶋氏と比較しながら、こう続ける。「ドラフトは東海大人脈で、コーチ陣は新人と原ファミリーばかり。オリックスを自由契約になった中島裕之の獲得に動いているのも、原監督の“お気に入り”だから。つまり、原監督は自分の思い通りになる人間だけを集めているんです。その点、ミスターは、たとえ自分と考え方が違っても、巨人の勝利のためなら、なんでも受け入れた。それこそ、原が長嶋第二次政権に入閣したのがいい例です」(前同)

 指導者としてのあり方が大きく違う原監督と長嶋氏。そもそも、2人の関係の始まりは38年前。原がドラフトで巨人に指名される1980年に、さかのぼる。「甲子園のスターとして、すでに全国区の人気者だった原は、巨人としても待望のスーパースター候補。ミスターは“背番号3を譲ってもいい”とまで言い、自身の後継者だと期待を寄せていました」(当時を知る元記者)

 だが、人気・実力ともに突出した逸材を他球団が放っておくはずもない。ドラフトでは4球団が1位で競合する。「残念ながらドラフトの前に、長嶋氏は監督を解任。後任の藤田元司監督が、見事に当たりクジを引き当てました。そして、その後、藤田監督は我慢強く原を4番で起用し続け、“巨人のスター”へと育て上げた。原はそんな藤田監督に感謝し、“恩人以上の恩人”と公言しています」(前同)

 原の指導者への道を拓いたのも、また藤田氏だった。「長嶋第二次政権時、読売グループの上層部から後継者の選定を頼まれた藤田氏は、迷うことなく原を推薦。一軍野手総合コーチとして入閣させています」(同)

 これは長嶋監督の意向とは関係なく、トップダウンで決まった人事だった。「当時の原はバリバリの藤田派。ましてや現役晩年、チャンスで代打を送られるなど冷遇されていたこともあって、長嶋監督とは距離を置いていた。しかしミスターは、純粋に“将来の監督候補”として原の入閣を歓迎したんです」(同)

 長嶋氏は原コーチに帝王学を惜しみなく伝授。試合後には、2人で采配を振り返るのが恒例となった。そして2001年、長嶋監督の勇退を受け、原新監督が誕生する。「原監督は“長嶋野球を継承する”と宣言。確かにFA補強に貪欲なのはミスター譲りでしたが、采配そのものに関しては、藤田さんの影響が強かったですね」(前出の番記者)

 攻撃重視型の長嶋監督に対して、藤田監督の采配は守りから入る堅実型だと評されていた。「これまでの采配手腕を見ても、原監督は夢より実利を取る超現実主義。しかし、ミスターのほうは、勝利にこだわりながら、同時にファンを喜ばせる“華”も重要視する人。指揮官としての原を認めてはいても、ミスターは、どこか物足りなさを感じているのではないでしょうか」(事情通)

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