■乱闘騒ぎにも発展して

 1993年、長嶋氏が13年ぶりに巨人監督に復帰。すると、すでに90年からヤクルトの監督を務めていた野村氏の“打倒長嶋”も復活する。「“カンピュータ”だの“審判を味方につけている”だの、野村監督はとにかく徹底的にミスターを挑発する発言を繰り返しました。ミスターが表立って反撃することはありませんでしたが、顔を合わせる場面では完全無視。近しい関係者には“ヤクルトに負けると腹が立つ”と、こぼしていたそうです」(デスク)

 もはや両者のライバル関係は、かつてのような一方的なものではなくなっていた。そして、指揮官同士の対立は、やがてチームをも巻き込んだ遺恨となる。94年5月。神宮球場での試合で事件は起きた。発端は2回表。打席に立った村田真一が、ヤクルト先発の西村龍次から頭部にデッドボールを受け、退場したことだった。「前年からヤクルトの投手陣は、内角の厳しいところをガンガン攻めていたんです。それだけに、巨人ベンチは怒り心頭でした」(当時の番記者)

 続く3回裏。打席に入った西村に、今度は巨人の木田優夫が死球を与える。誰の目にも明らかな“報復”だった。「7回には、またも西村が打者のグラッデンの頭近くに投球。これにグラッデンが激怒。捕手の中西と殴り合いになり、結局、大乱闘に発展しました」(前同)

 この事件は、現在の「危険球ルール」制定のきっかけともなった。「当時の巨人とヤクルトは、両者とも強かった。実際、93年から97年まで交互に日本一となっています。直接対決が激しさを増すのも当然ですし、それだけ両監督が勝利への執念を燃やしていたということでしょう」(球界事情通)

 長嶋、野村両監督の直接対決は、2001年シーズンが最後。勝負の行方は、来季の愛弟子たちへと引き継がれる。「原監督は、さっそく丸、炭谷、中島、岩隈を獲得するなど、相変わらずの大型補強。まさに、勝つためなら手段を選ばない“長嶋イズム継承”を、今回も発揮した形です」(巨人番記者)

 そんなライバルの大補強にもめげることなく、矢野監督は打倒巨人を宣言した。「矢野監督は、圧倒的戦力の巨人に対し、“知恵を絞って戦う”と意欲を見せていました。阪神は、このオフに目立った補強をしていません。限られた戦力を頭脳で生かすこれは、まさに“ノムラの教え”。打倒巨人は野村イズムにかかっていますね」(虎番記者)

 はたして長嶋氏と野村氏の“代理戦争”決着の行方はいかに?

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