華原朋美
※画像は華原朋美の1stアルバム『LOVE BRACE』より

平成アイドル水滸伝~宮沢りえから欅坂46まで~
第9回 華原朋美とPerfumeの巻~プロデューサーと平成女性アイドル【前編】

三角関係

 平成はプロデューサーの時代である、というのはよく言われる話だ。確かにつんく♂や秋元康など、特にアイドル好きではなくとも世間に知られているプロデューサーは少なくない。

 昭和にも同様のプロデューサーがいなかったわけではない。

 代表的なのは、作詞家の阿久悠だろう。現在のアイドル文化の原点とも言える日本テレビのオーディション番組『スター誕生!』。そもそもこの番組を企画したのが放送作家でもあった阿久悠であり、阿久はこの番組が輩出したアイドルの歌う曲の作詞だけでなく、アイドルとしてのトータルなコンセプトを考え、イメージ戦略を立てもした。その最大の成功例が、ピンク・レディーである。

 しかし、当時の阿久はプロデューサーとして表には出てこなかった。確かに『スター誕生!』の審査員として出演し、メディアにたびたび登場する有名人だった。だがそれはやはり作詞家や文化人としてであった。

 ではなぜ平成になってアイドルのプロデューサーが続々と表舞台に登場するようになったのか?

 それはおそらく、ファンが憧れる対象になったからだ。アイドルがそうであるように、プロデューサーも憧れられるものになったのである。

 昭和のアイドルは、ファンにとってただ好きになって応援するだけのものではなく鑑賞し評価するものでもあった。私自身書店ではじめて『よい子の歌謡曲』というアイドルファンによるミニコミ雑誌を見つけたときのことは忘れられない。1979年発刊のその雑誌は、薄手で手作り感満載だったがアイドルを語りつくしたいという熱気で満ちあふれ、かなりの評判にもなった。

 そうしたアイドルを批評したいというファンの欲求こそが、平成になってプロデューサーが注目されるようになった背景にあるものだろう。叶う事なら批評するだけでなく、アイドルを実際にプロデュースしてみたい。それがいつしかアイドルファンのなかに潜む願望になった。だからプロデューサーは憧れの対象であると同時に嫉妬の対象でもある。愛憎半ばする間柄、それがファンとプロデューサーだ。

 今回は、そんなアイドル、ファン、プロデューサーのあいだの“三角関係”にスポットライトを当ててみたい。登場してもらうのは華原朋美と小室哲哉、Perfumeと中田ヤスタカである。

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