■天皇のお言葉

「皆さんによろしく。仲よくしましょう」(昭和20年12月 米国人の記者へ)第二次世界大戦終戦の年、12歳の誕生日を迎えられる前にAP通信の記者から「米国の少年へのことづてはありますか」と尋ねられた際に、こう述べた。

「本当にかわいそうだ。早く材木を運んできて新しい家をつくれないのか」(昭和20年12月 12歳の誕生日の記者会見で)疎開先の栃木・日光から戻った陛下が、第二次世界大戦で米軍からの攻撃で焦土と化した東京を見たときの感想。沈痛の思いが伝わってくるお言葉である。

「けが人はなかったろうね」(昭和27年11月 伊勢神宮で)立太子の礼を終えて正式に皇太子となった陛下が参拝した際、1万人以上の人々の出迎えと歓迎ぶりを見て、宿泊先に戻ってから侍従に漏らしたお言葉。

「亡くなった多くの方や、目の前で肉親を失った人たちのことを考えると、胸が締めつけられる思いです」(昭和34年10月 被災地視察後の記者会見で)中部地方で死者5000人の被害をもたらした伊勢湾台風で、被災者の窮状を目の当たりにされて述べた。被災地への思いと訪問は、この後もずっと続く。

「親子3人が川の字になって寝るような家庭を作りたい」(昭和35年2月)第一男子、浩宮殿下(皇太子殿下)の誕生後に述べた言葉。これにより、皇室の伝統とは異なる親子同居を実現した。

「これは私たちだけに対するものでなく、日本と日本国民に対するものと思い、心から感謝しています」(昭和35年10月 日米修好通商100周年の記念式典で)美智子さまと、夫妻そろって訪米した際にアメリカ国民から歓迎されたことへのご感想。ディズニーランドではウォルト・ディズニー自らが案内した。

「国と国との友好も結局は人間関係です。私はそのベース作りをしたい」(昭和45年 記者会見で)第二次世界大戦における旧日本軍の占領地だったマレーシアとシンガポールご訪問にあたってのお言葉。10日間にわたって東南アジア2か国を訪問した。

「日本人はもう少し暇を持つべきです。そうであれば、公害にも早く気がついたと思います」(昭和47年8月 夏の記者会見で)高度経済成長下の日本で、性急な経済成長の“代償”として水俣病やイタイイタイ病などの公害訴訟が起きていた。こうした現状へのご感想として。

「(天皇は)明治以降、政治に関わりをもたれたこともあったが、本来は政治から中立的で、それらを超えたものであり、今後もそうあらねばならないと思っています」(昭和47年12月 39歳の誕生日の記者会見で)沖縄返還の年に39歳の誕生日を迎え、皇室と政治との関わり合いについて語ったお言葉。天皇の立場についてのお考えを表している。

「四十にして惑わずというけれど、惑いはありますよ。惑いつつ進むというのが普通じゃないでしょうか」(昭和48年12月 40歳の誕生日の記者会見で)40歳のお誕生日を迎えた陛下が「不惑の年」(となったことの感想を求められて。一人の人間としての心の内を率直に明かした。

「払われた多くの犠牲は、一時の行為や言葉によってあがなえるものではなく」(昭和50年7月 沖縄で)沖縄を初訪問した陛下のお言葉。「人々が長い年月 をかけて、これを記憶し、一人一人、深い内省の中にあって、この地に心を寄せ続けていくこと以外には考えられません」と続く。

「日本人が外国へ行けば、一人一人が広い意味で外交をしていることになる」(昭和50年12月 23日42歳の誕生日の記者会見で)日本人の海外旅行が急速に増加し、戦後初となる昭和天皇の欧米訪問が成功したことから、「皇室外交」について質問された際のご感想。

「民主主義は人と人との信頼関係であると思います」(昭和51年12月 43歳の誕生日の記者会見で)ロッキード事件で田中角栄元首相が逮捕され、政治の混乱について尋ねられた際のご感想。国民からの信頼を重んじる考えが感じられる。

「地方というものは非常に大事だと思いますね。中央だけでなくて、地方全体がそれぞれの立場で生きていく。それが日本として大事だと思います」(昭和55年8月 夏の記者会見で)「国民との触れ合いを求めておられるようにお見受けします」という記者の質問に対するご回答。天皇は実際に日本各地を訪れている。

「日本では、どうしても記憶しなければいけないことが四つあると思います。終戦記念日と、広島、長崎の原爆の日、そして6月23日の沖縄の戦いの終結の日」(昭和56年8月 夏の記者会見で)このあと、「平和のありがたさというものをかみしめ、また、平和を守っていきたいものと思っています」というお言葉が続く。

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