■巨人V9戦士に猛特訓

 王と同様、V9戦士の高田繁も、長嶋に愛された選手の一人だ。「ハリさん(張本)が入ってきてレフトを守るっていうから、高田さんのポジションがなくなっちゃったわけです。高田さんは、引退を覚悟したらしいよ。それを救ったのが、ミスターなんですよ」(別の記者OB)

 張本の巨人入団が決まった75年のオフ、思案にくれる高田のもとに、長嶋氏から電話がかかってくる。「高田さんはミスターから、“お前はまだやれる。俺がサードの守備を教えてやる”と言ったそうです。要は内野コンバートです。それで、12月に多摩川のグラウンドでミスター自らノックして、サードの守備を仕込んだんですよ」(前同)

 特訓の甲斐あり、高田は三塁手に定着。外野手時代に獲得したゴールデングラブ賞の栄光に、内野手としても輝いている。

 “青い稲妻”の異名を取った松本匡史も、長嶋に見出された選手だ。「松本は、早大から社会人野球の日本生命に進むことが決まっていましたが、ミスターの鶴のひと声でドラフト5位で指名されたんです。ミスターは、松本の脚力を高く評価していましたね」(前出の球界関係者)

 入団後しばらくは鳴かず飛ばずの状態が続いたが、79年に外野コンバートが言い渡されてから覚醒する。「伝説の“地獄の伊東キャンプ”では、ミスターから、出塁率を上げるために左打ち転向を厳命されます。松本は慣れない左打ちで、一振りすると一歩進みながら、ホームからライトポールまで移動。さらに、そこからホームに戻るという特訓を繰り返していました。辛かったでしょうね。大の大人が、目に涙を浮かべながら素振りしていましたから……」(前同)

 選手のためなら鬼にもなる長嶋氏。松本はミスターのシゴキによって、不動のトップバッターに生まれ変わることができたのだ。

篠塚和典の才能も、長嶋さんは見抜いていました。75年のドラフトで巨人は篠塚を1位指名しましたが、当初、スカウト陣は猛反対していたといいます」(前出の記者OB) 篠塚は銚子商業時代に肋膜炎を患っていたため、各球団とも指名を見送ることが分かっていたからだ。「しかし、長嶋さんは“彼のミート技術は非凡だ”と獲得を命じ、プロ入り後は体力強化に務めさせ、その才能を開花させています。篠塚もこれを意気に感じ、“長嶋さんのためにも成功する”と、がむしゃらに頑張ったわけです」(前同) 長嶋氏と篠塚の絆は強く、第2次長嶋政権時には、コーチを7年も務めている。

 篠塚入団の5年後にドラ1で巨人に入団したのが、原辰徳だ。「東海大相模時代から、爽やかなルックスと豪快なバッティングで甲子園を沸かせていた原だけに、ミスターは高校卒業後すぐ、巨人に来てほしかった。ただ、原は父親の貢さんが監督を務める東海大への進学を決心していた。そのため、長嶋巨人には間に合わなかったんです」(スポーツ紙巨人担当デスク)

 原は93〜95年(引退)までの3年間、第2次長嶋政権で選手として活躍したが、そのときは、すでに全盛期を過ぎていた。「99年に原が長嶋巨人のコーチに就任してからが、2人の本当の蜜月の始まりでした。長嶋さんは“自分の後継者は原しかいない”と考えており、作戦から選手との接し方、補強策の練り方まで丁寧に原に教え、原もこれに感激したといいます」(前同)

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