力道山と美空ひばり、昭和の大スター知られざる友情秘話の画像
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 日本中を熱狂させた偉大なレスラーと歌姫。2人のカリスマが遺した、偉大すぎる足跡と感動物語を大特集!

「空手チョップ」でプロレス界のヒーローになった力道山と、女性初の国民栄誉賞を受賞した芸能界の女王・美空ひばり。戦後の日本を元気づけた国民的スーパースターだ。

 大相撲で関脇まで昇進した力道山は、1950年8月、自ら髷を切り落として力士を廃業。翌年にプロレスラーへ転向する。「力道山はレスリングの練習を始めて3週間でリングに登場。試合は外国人レスラー相手に引き分け。プロレスラーとしての素質が開花しました」(当時のプロレス関係者)

 プロレス修業で52年に渡米し、全米マット界に力道山旋風を巻き起こす。翌年に凱旋帰国。日本でもプロレス人気が高まる。力道山はプロモーターとしても手腕を発揮。レスラーの招聘、興行の開催、選手のマッチメイク、ギャラの交渉などプロレスビジネス全般を取り仕切っていた。元NWA世界チャンピオンのルー・テーズは、「力道山は私がこれまで接してきた中で最高のプロモーターだった」と評している。

 一方、力道山が関取だった46年9月、9歳の天才少女が横浜のアテネ劇場で初舞台を踏む。加藤和枝、のちの美空ひばりだ。「その年の暮れに、NHK素人のど自慢大会に出場。当時の流行歌『悲しき竹笛』を歌ったんですが、“子どもが大人の歌を披露しても審査の対象にならない”と鐘ひとつ鳴りませんでした」(当時の放送関係者)

 翌年、巡業中に高知県の大杉でバス事故に遭う。ひばりは胸を強打して失神。右手首に生涯消えなかった傷跡が残る。九死に一生を得た彼女は、「歌手になるために生まれてきた命を神様が救ってくれた」と、自分の運命を信じるようになった。

 48年に横浜国際劇場で歌手として本格デビュー。育ての親は、人気ボードビリアンの川田晴久だ。「浪曲からクラシックまで、川田はあらゆるジャンルの楽曲を指導。彼女の歌のうまさは、ひばりの天性と川田の稽古のたまものです」(音楽関係者)

 翌年に発売した『河童ブギ』と『悲しき口笛』が大ヒット。50年5月に映画『東京キッド』(松竹)のロケを兼ねて、ひばりは川田とハワイとアメリカ西海岸公演に出発する。「その直前に日本音楽著作権協会から、服部良一作曲のブギウギを渡米先で歌うことを禁止する通知が届きます。実は6月に服部と笠置シズ子のアメリカ公演を控え、先に歌ってもらっては困るという事情があったんです。それ以来、ひばり母子と服部の関係はぎくしゃくします」(前同)

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