『夜の虹を架ける』市瀬英俊(双葉社)
『夜の虹を架ける』市瀬英俊(双葉社)

 昨年11月に終了した『週刊大衆』連載『夜の虹をかける』が、このたび単行本『夜の虹を架ける』として双葉社より発売された。著者・市瀬英俊氏は『週刊プロレス』誌において長らく“馬場番”を務めた。元番記者が知る、世界の大巨人の実像とは。

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 来る2月19日。東京・両国国技館で、プロレスのビッグイベントが行われる。興行名は『ジャイアント馬場没20年追善興行~王者の魂~』。

「世界の大巨人」と称されたプロレスラーのジャイアント馬場が、61歳にして、この世を去ったのは1999年1月31日のことだった。
 
 あれから20年。ここにきて、ちょっとした馬場ブームが巻き起こっている。

 昨年末から年明けにかけて、東京・渋谷の東急百貨店本店では『ジャイアント馬場展』が開催され、総来場者数は1万人を超えた。昨年12月にはTBSテレビ系列の人気バラエティ番組『爆報!THEフライデー』において、馬場夫妻の秘話が取り上げられた。そして、この1月に双葉社より刊行された『1964年のジャイアント馬場』(柳澤健・著)は、単行本の文庫化にもかかわらず早々に重版がかかった。

 さらに、前述の2・19両国イベントもチケットの売れ行きは上々だという。なぜ今、ジャイアント馬場なのか。

 私が『週刊プロレス』編集部の記者として、馬場を取材するようになったのは87年初頭のこと。当時、全日本プロレスは長州力率いるジャパン・プロレスと業務提携を結んでいたが、3月に長州ら約10人のレスラーが古巣の新日本プロレスにUターン。戦力の低下を余儀なくされた馬場は、週刊プロレスの誌面を通じて怒りをあらわにした。

「契約というものを簡単に考えてもらっては困る。俺は命まで取ろうと言っているのではない。契約書には命まで取るという規約はないんだ。契約をクリアさえしてくれれば、俺はなんにも言わん。答えはもう出ているんだ」

 事態を収束させるには、違約金の支払いしかないことを、馬場は示唆した。

 正論である。だが、ファンの視線は民事裁判の行方よりも、新日本に戻った長州グループの動向に集まる。

 そもそも非日常の空間を提供するプロレスにおいて、正論や契約を持ち出す馬場のほうが無粋である。そんな空気さえ蔓延していた。

 ファンの支持を得られない馬場。苦難の時期だった。取材陣が近づくと、葉巻の煙をプカーッと吐き出し、バリアを築く。それが日常のよくある風景だった。

 さかのぼること約43年。新潟県立三条実業高校(現・三条商業高校)の1年だった馬場は、そもそもは野球少年でありながら、その巨体ゆえ足に合うスパイクがなかったことから、美術部に所属していた。

 だが、野球部顧問の計らいによって特注スパイクを得ると、高2の春。晴れて野球部に入り、その秋には読売巨人軍からスカウトを受けるまでになった。

 高校を中退して、夢のプロ野球選手へ。そして、馬場は“契約社会”の中で青春時代を過ごすことになる。

 巨人軍には5年間、在籍した。だが、一軍登板は3試合にとどまり0勝1敗。芽が出ないまま59年秋、クビになった。その後、風呂場で転倒するというアクシデントも重なり、野球の道を断念。馬場は生きていくための手段として、プロレス界に身を投じることになる。

 その後の活躍については多言を要しないだろう。ただ、全日本プロレスの舵取りについては前述の通り、苦悩を味わった。

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