■巨人にコンプレックスを抱き続けて

 野村氏は南海の入団テストに挑戦し、契約金なしの月給7000円でプロ入りしている。1954年のことだった。「当時の銀行員の初任給が6000円弱ですから、決して高い給料ではない。しかも、ノムさんは給与から寮の部屋代、食事代の4000円を差っ引かれ、母親に仕送りもしていたそうですから、カツカツの生活だったはずです」(前同)

 58年に巨人に入った長嶋氏は契約金1800万円、翌59年に東映に入団した張本氏が同200万円を手にしているため、野村氏の境遇が、いかに過酷なものだったか分かる。「ノムさんは1年目シーズン終了後、球団からクビを言い渡されますが、悲しむ母親の顔が浮かび、球団職員に“クビなら南海電車に飛び込む。給料なしでいいから、あと1年やらせてくれ”と頼んだそうです」(前出のベテラン記者)

 そこから、死ぬ気で野球に取り組んだという野村氏。〈練習が終わってみんなが休んでいるときも私はひとり、バットを振った。(中略)砂を詰めた醤油の一升瓶をダンベル代わりに筋トレをし、パワーをつけようとした〉(前掲書=以下同)

 特訓の甲斐あって、3年目のシーズンはレギュラーに定着、快進撃が始まる。「57年シーズンには打率.302、30本塁打、94打点をあげて南海の主軸になると同時に、パ・リーグを代表するスラッガーに成長します」(ベテラン記者)

 守備の要の捕手でありながら、大活躍を続ける野村氏の前に強敵が現れる。“ミスタープロ野球”こと長嶋氏だ。野村氏は、長嶋氏や王貞治氏、そして球界の盟主を自認する巨人にコンプレックスを抱き続けていたという。〈なにしろ、長嶋や王がバッターボックスに入って来るだけで、マスク越しに私は思ったものだ。「かっこいいなあ……」〉

 1975年5月13日、ロッテ戦で2500本安打を記録した野村氏は記者陣を前に、こう呟いた。「長嶋君はひまわりの花です。対して私は、日本海の浜辺に咲く月見草です……」

 有名な“月見草発言”だが、これは野村氏の本心だと球界関係者は証言する。「いくらノムさんが三冠王を獲ってもホームランを打っても、話題になるのは巨人であり、ONでしたからね。悔しかったはずです。それはハリさんだって同じ。東映の試合は閑古鳥。パ・リーグ時代は、巨人やONに対して忸怩たる思いがあったはずです」

 当時は“人気のセ、実力のパ”と言われていたが、これは「巨人のいるセ・リーグに負けてたまるか」という、パ・リーグの選手の意地だったのだ。「ですから、パ・リーグの選手は、セ・パが激突するオールスター戦に死に物狂いで臨んでいました。オールスター戦の前日、ハリさんはマスクをかぶるノムさんに電話をかけ、“ONには絶対に打たせないでほしい!”とハッパをかけていたそうですからね」(前同)

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