『いつのまにか、ここにいる Documentary of 乃木坂46』を松江哲明監督が語る!その2の画像
※画像は映画『いつのまにか、ここにいる Documentary of 乃木坂46』パンフレットより

 ドキュメンタリー映画監督の松江哲明氏が、アイドル映画を評論し……、というか、アイドル映画ってそもそもどういった作品のことを指すのか? という再定義を目指す連載。今回は、前号の記事の続きとして、乃木坂46のドキュメンタリー映画第2作目『いつのまにか、ここにいる Documentary of 乃木坂46』を語ります!

■「ドキュメンタリーの時間」を守った作品

――前回の記事では、現在、事実上のトップアイドルグループにいる乃木坂46が「撮らせ た」映画であるという指摘がありましたが、他に気になった演出はありましたか?

松江 「いつか来るかな」と待ってはいたんですけど、最後まで楽曲をフルで流すことを しなかったですね。

――あぁ~。たしかに。

松江 ずっと「ドキュメンタリーの時間」を守っているところに、こだわりと意思を感じました。つまり、ライブシーンがないんですよ。ライブ会場を撮ってるけど、ハレの場とでも言うべきライブのシーンがない。その代わり、袖で見てるところとか、リハーサルは見せる。

――「ドキュメンタリーの時間」とはなんですか?

松江 「被写体たちの感情が動いてる時間」のことです。ハレの場で歌って踊ってキラキラしてるところを撮るにしても、例えば白石さんと西野さんのドラマを見せて、抱き合ってる絵を見せてから、ハレの場を見せていました。しかもダラダラ見せない。ああいうところで長く曲を見せちゃうと「音楽の時間」になっちゃうんですよ。そういう演出を絶対してなかったですね。

 西野さんの卒業の歌をモニターで見ているメンバーのカットがありましたが、つまりは、 一番彼女たちの心が動いている「ドキュメンタリーの時間」は、本番ではなくて、リハ映像をモニターで確認している時なんだな、と。「被写体がオンの時」って、必ずしも客前だけではないんです。リハーサルの時がもっとも彼女たちにとっての一番エモーショナルな時間なのかもしれない、という作り手の考えが踏まえられているカットだなと思いました。

「オン」しかないドキュメンタリーって弱いんです。つまり、ずっと被写体を追いかけているんだけどイベントしか撮っていない映画。イベントって大事ではあるんだけど、実 はそこに向けての練習の方が「被写体にとってのオン」だったりするわけです。

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