■今のEXILEがやっていることと一緒だね

――横浜銀蝿がブレイクした81年は、校内暴力や非行問題で、中学・高校が荒れていた時代。彼らのファン層は、そういった不良たちだったのだろうか。

TAKU  最初は暴走族みたいなのがついてきていたけど、後半は出待ちも現れて、普通の10代の男女も多かったよ。

翔  一度、ライブの最前列に白ラン(純白の学生服)を来た4人組が座って、じーっと睨んでることがあって。なんだ、こいつら、これは一戦交えなきゃならんか、と思ったけど(笑)。

嵐  集会じゃないんだから!

翔  でも、よくよく考えたら、チケットを相当早くに買わないと最前列には座れないよね。おまけに演奏中に足でリズム取ってるの。あ、こいつらファンなんだと(笑)。そんないかつい奴らもいたし、後ろの席では真面目な子たちも楽しんでくれていた。だけど1年目は名前とイメージが先行しているから大変だった。たとえば静岡でライブをやると、県境に入った途端、静岡県警のパトカーが俺たちのバスにつくんですよ。補導員の先生たちも会場の周辺にウロウロしていたり。

TAKU  それで対話集会が生まれたんだよね。

翔  対話集会はねえ(笑)。俺はお客さんのヤジとかを拾うのが好きで、あるとき、高校生ぐらいの男の子が「どうせ俺、明日から停学だし」みたいなことを言い出して。俺も「何それ? 銀蝿のライブ行くと停学なの?」か聞いて。スタッフもその高校生にマイクを渡して、コンサートを中断して、そいつの話を聞いてやったの。それがきっかけ。

嵐  俺も事務所の社長も、面白いから毎回やろうよ!って。それが噂になって、雑誌にも載り、対話集会って言葉も生まれた。

翔  それ以降は何でもお悩み相談室になってさ(笑)。

TAKU  最初は15分ぐらいだったのが、最後のほうは45分ぐらいやってたよね。傍から見ていると、後半は翔くんのしゃべりもだんだんこなれてきて、金八先生みたいになっていった(笑)。

翔  一番困ったのは、彼氏ができないけどどうしたらいいかとか、ノーマルな普通の悩みだよね。“まあ、時期が来れば”とか適当なことを言って(笑)。そうやって人気者にはなったけど、その実、一番女の子にモテたのは……。

嵐  Johnnyだよね!

Johnny  いや、唯一ヒゲを生やしていなかったからだよ。俺はティーン担当で、大人の女性陣はTAKUに行っていた。

嵐  俺は小学生ばっかりだったな(笑)

翔  でも、バレンタインデーになると、事務所にチョコレートがトラックで何台も来ましたよ。

嵐  しかもJohnnyは律儀に全部、そのチョコを食べていたもんな。

翔  でも、そうやってジャニーズ事務所みたいに、バレンタインデーにトラックが横づけになるでしょ。それをメンバーごとに分けるんだけど、当然Johnnyがすごく多い。だけど、思ったより嵐さんも多いな?  と思っていると「横浜銀蝿さまへ」って来てるのも全部、自分のところに持ってっちゃったんですよ。

嵐  本当の二番手は俺だったんだよ!(笑)。

――横浜銀蝿は、紅麗威甦(ぐりいす)や嶋大輔といった後輩たちや、アイドルの岩井小百合をデビューさせるなど、弟分、妹分と呼ばれるアーティストを次々と世に送り出していった。彼らは“銀蝿一家”と総称されていたが、この発想はどこから来たのだろうか。

嵐  銀蝿を追っかけてくる奴らが多くて、彼らは俺たちみたいになりたいと思っているわけ。だったら良さそうな奴らを集めてバンド組ませよう、という発想から始まっているんですよ。

翔  今のEXILEがやっていることと一緒だね。

嵐  それで杉本哲太を中心に紅麗威甦を組ませたり。嶋大輔はライブでスカウトした。俺は背が低いから、デカい奴に憧れるところがあって、哲太も大輔も、その後に入った矢吹薫もみんな180センチ以上あったから、それだけでOK。

TAKU  岩井小百合ちゃんをマスコット・ガールにしたり。

翔  ユタカプロも、銀蝿が入る前はアイドルグループを扱っていた事務所なんです。だから俺たちが入ったとき、社長はおかしくなったんじゃないかと言われた(笑)。あまりにも毛色が違うから。むしろ小百合ちゃんのプロモーションは、お手の物だったよね。

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