清野とおる&東陽片岡「日本が誇る二大おスナック漫画家は親戚」説を検証する‼の画像
『赤羽』の単行本を手にとる東陽片岡さん。「秋田ぶるうす」にて。

 板橋区民であった清野とおるが、北区に住民票を移したところで完結した『ウヒョッ!東京都北区赤羽』。このタイミングで、「赤羽」担当が前から疑念を持っていた件をはっきりさせようと思います。

 それがタイトルの『清野とおる&東陽片岡「日本が誇る二大おスナック漫画家は親戚」説』。

 東陽片岡さんの本名は「清野賢一」、そして実家は板橋区。東陽さんが「東陽片岡」と名乗ったのは夢のお告げによるものであることは、有名なエピソードだ。方や清野さんも引っ越すたびに「赤羽の母」の占いに100%従っているし、「お告げ」的なものを大切にしているところも似ている。

 そして今や一般的にも使われるようになった清野とおるの発明語「おこだわり」、方や東陽片岡の発明語「お風俗」「おスナック」など、2人とも「お」をつけたがるのは血のつながりからなせるわざに違いない。

 清野さんに聞いても「何一つとして分からないです……!」とのことなので、『ウヒョッ!東京都北区赤羽』のデザイン、そして東陽さんの単行本デザインをほぼ全て手掛けている井上則人親分とともに、東陽さんがマスターを務めるおスナック「秋田ぶるうす」にお邪魔しました。

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実家の家系は山形県でね、おじいちゃんが北海道に渡って布教師としてお寺を開いたのよ。
曹洞宗のお寺なんだよね。
曹洞宗って鎌倉仏教の中でも一番修行が厳しいんだよ。
それで後継ぎがいないまま死んじゃって、家族がお寺を追い出されたの。
親父は6歳で、親父のアニキ、俺からみたら伯父さんが9歳だったんだよ。
その後おばあちゃんが再婚して、子供たちと別居することになったんだよね。
それで親父とおじさんはもともと実家があった山形県のお寺に預けられたんだわ。
で、親父がお坊さんを継ごうとして、駒沢大学に進学して、その後結婚して住んだのが板橋区仲宿のボロアパート。
俺はそこで生まれて、4歳の時に十条へ引っ越したんだよね。
また板橋区に移ったのは、昭和46年、俺が13歳のときね。
十条に住んでいたときに、他にも「清野家」があったんだよね。
お医者さんの「清野家」と、星一徹·飛雄馬の家みたいな木造物件に住んでた「清野家」ね。
今も住んでるのかなあ。
結局親父は大学3年のときにお坊さんのコースを選択しなくて、一般コースを選んだんで、お坊さんにはならなかったんだよね。
大学を卒業したあとは記者になったんだよ。
新聞なんかにさ、折り込みで地域の新聞が入っているじゃない、親父は北区新聞社っていう地方紙の記者をやっていて、91歳なんだけど今も現役で仕事してるよ。
北区や板橋区ってのは、東北から上京してきた人たちが移り住んできたところなんだよね。
北の玄関口って感じで。
とおるちゃんのご先祖も、東北から東京を目指して移り住んできたのかもしれないよ。

 ※   ※   ※

 残念ながら説立証とならなかったが、親戚の可能性は残っている。

『ウヒョッ!~』最終巻に掲載した「とおる」の方の清野家の家系図の祖父の幸夫さん(日本初のズラモデルとして歴史に名を残す。『ゴハンスキー』5巻参照)以前の出自はよく分からないという。

「清野家の出は東北のようなんですが……」と、言う清野とおる。

 いずれにしても、「清野とおる」と「東陽片岡のお父さん」、「二人の清野」が北区の取材に精を出しているは明らかになった。さらに勘のいい読者ならピンと来ると思うのですが、最終巻で触れた「赤羽漫歩」のA氏が赤羽の取材に精を出している時期にも、東陽さんのお父さんは「北区新聞社」の記者として活躍されていたという事実、これは……。

 軽い気持ちで「秋田ぶるうす」を訪れたのですが、思った以上に収穫がありました。続報をお待ちください!

(取材・文『ウヒョッ!東京都北区赤羽』担当)

清野とおる
1980年板橋区出身。代表作に『東京都北区赤羽』『その「おこだわり」、俺にもくれよ‼』など多数。

東陽片岡
1958年板橋区出身。代表作に『やらかい漫画』『レッツゴー‼おスナック』など多数。荒木町のおスナック「秋田ぶるうす」でマスターとして勤務中。

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