【ニッポン古代史の反乱】名門から反逆者「藤原広嗣の乱」!の画像
写真はイメージです

 日本の歴史上、最初の反乱とされる古墳時代の「磐井の乱」は、前号で触れたように九州で発生した。とはいえ、当事者の筑紫君磐井率いる地域国家ツクシが、同じくヤマトと衝突したという意味で、果たして本当に反乱と言えるかは微妙だ。

 その一方で、奈良時代に同じく九州で勃発した「藤原広嗣の乱」は、紛れもない反乱だったと言える。その首謀者である広嗣の曾祖父は「乙巳の変」を実行した藤原鎌足で、祖父が光明皇后(聖武天皇の后)の父である不比等。不比等は右大臣として律令制度を整えた国家の功労者で、その子供である藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)が協力して政権を担ったとされるものの、次男だけが孤立していた可能性がある。

 その根拠の一つが“疫病”だ。当時は現在の新型コロナウイルスと同様、飛沫や接触で感染する天然痘ウイルスが猛威を振るい、四人がいずれも命を落としたのだが、問題はその死亡時期。房前が天平九年(737)四月一七日である一方、残る三人は時期がずれ、同年七月一三日から八月五日までにかけて亡くなったことから互いに濃厚接触し、同時期に感染した可能性があるためだ。

 実際、歴史学者である木本好信氏は当時の政府について、「武智麻呂が主導し、それを宇合が積極的に支え、麻呂も協力」したものの、「房前は除外されていた」(『万葉時代の人びとと政争』)という。

 そして、武智麻呂政権を支えた宇合の長男が広嗣。父の宇合は若くして遣唐使の副使に任じられた一方、蝦夷の反乱の際に征夷持節大将軍として東北に遠征した武官で、その後も西海道節度使として、九州からの兵の確保や教練、武器や武具の調達と修理に当たった。彼は前述の通り天平九年八月五日に天然痘で死亡したが、広嗣は翌年四月に式部少輔に加え、「やまと(大和)のかみ(守)」と読む大養徳守に任じられた。これは中央政府の政務次官兼東京都知事のようなもので、それだけ将来を嘱望されていたと言える彼はなぜ、反乱を起こしたのか。

 その最大の理由が同年暮れ、大宰府の次官(少弐)として九州に赴任が言い渡されたこと。むろん、のちに菅原道真が大宰府に左遷されたことから悪い印象を抱きがちだが、広嗣の場合は父である宇合の西海道節度使(当時は節度使が廃止されていた)の地位を引き継ぐためであり、決してそうではなかった。

 ただ、広嗣が反乱したあとに九州の人民に下された勅(天皇の命令書)には、彼が「凶悪で謀略を好み、父宇合が除こうとしていたところ、朕(聖武天皇)がそれを許さず今に至った」とある。当然、反乱後だけに鵜呑みにすることはできないものの、大養徳守に就いたあと、その傲慢な性格からトラブルを起こした可能性は否定することができない。

 ところが、広嗣は大宰府に赴任することを左遷と思い込み、藤原兄弟の死で政権の座に就いた右大臣橘諸兄の参謀格である僧玄坊と吉備真備の二人が黒幕と断定。エリート意識の高い彼にすれば、当時、敏達天皇六世の皇孫(葛城王)に当たる諸兄が臣籍降下し、法相宗の僧である玄坊と地方豪族出身の真備が唐で学んだ留学僧(留学生)とはいえ、二人が厚遇されることに対して反発があったのだろう。ただ、皮肉なことに、玄坊と真備が渡唐した際の遣唐副使は広嗣の父である宇合だった。

 広嗣はこうして大宰府に赴任した二年後の天平一二年(740)八月二九日、政府に上表。『続日本紀』を読むと、その理由に玄坊と真備の追放とともに「時政の得失」を挙げたことが分かる。

 時政の得失は時の政治が悪いこと、つまり悪政を意味し、広嗣の行為は紛れもなく政権に対する批判で、『続日本紀』によると、聖武天皇はこれを天皇に対する批判を考え、九月三日になって反乱と判断。

 大野東人と紀飯麻呂をそれぞれ大将軍と副将軍に任命し、五道(東海、東山、山陰、山陽、南海)から一万七〇〇〇の兵を徴発したとされ、広嗣はこうして反逆者となった。

 当時は律(刑法)の規定により、天皇を批判すると斬刑に処せられ、磐井の乱が起きた古墳時代とは異なり、すでに天皇を中心とする国家体制が完成。冒頭で広嗣の乱が紛れもない反乱と書いたのはそのためだ。

  1. 1
  2. 2