■天皇は広嗣ではなくてその父の影響を恐れた
こうした中、政府軍が先手を打ち、豊前国にあった反乱軍の前線基地三ヶ所はあえなく陥落。やがて政府軍の本軍が関門海峡を渡ると、一方の反乱軍も広嗣と弟である綱手の両軍、さらに多胡古麻呂の軍の三手に分かれて古代の駅路(幹線道)などを進軍する計画だったが、足並みが揃う前に撃破されてしまう。
一〇月初め、板櫃川の西側(北九州市)に布陣した反乱軍は、広嗣が政府軍に弱腰の態度を見せたこともあり、事実上、瓦解。広嗣は同月二三日、肥前国値嘉島(現在の長崎県五島列島と平戸島を含めた古称)で捕えられ、松浦郡(唐津や伊万里市他)の郡家(郡の拠点)で、綱手とともに斬刑に処せられた。
こう見ると、あっけない幕切れに映るが、広嗣の乱は古代最大の反乱と言え、実際、その後の歴史に及ぼした影響は大きかった。
実際、政府軍が鎮圧に大野東人の軍やその他の軍を合わせて総勢三万近い兵を動員し、二ヶ月の期間を要した一方、聖武天皇は反乱の影響から恭仁京などに遷都を繰り返し、次第に民衆が疲弊。
では、天皇がここまで脅威を感じた理由は何か。それは広嗣の父である宇合の遺産。広嗣は父が西海道節度使時代に管内の各郡部に与えた影響力を引き継ぎ、九州各地から兵を徴収していたのだ。
むろん、親の七光りだけではどうにもならなかったようだ。