■サウナ好きだった光秀

 また、信長の命令を実行するため、比叡山の麓の村人を撫で切りにしようとする一方、領民には優しかったという。「光秀の“マブダチ”と言える吉田兼見(京都吉田神社神官)から逐電(行方をくらますこと)した小姓を探してほしいと頼まれ、光秀は家臣に命じて見つけ出します。ただ、その小姓は領民の一人。光秀は家臣を通じて“逐電したことは許してやってほしい”と兼見に頼み込んだそうです」(前同)

 光秀は大の石風呂(サウナ)好きでもあった。「戦争中に吉田兼見を訪ね、石風呂で汗を流したなどの逸話の他、光秀の死後、石風呂好きだった光秀の菩提を弔うため、叔父が京の妙心寺に石風呂を寄進しています。今も明智風呂の名で境内の一角に残っています」(県文化財保護課担当)

 女性関係はどうだろうか。正室の熈子(旧姓妻木)は、光秀が世に出る前、自慢の黒髪を売って金に替え、夫の出世の手助けをしている。そのため、光秀は正室の熈子一筋。根っからの愛妻家といわれているが、「千草という名の美女と密通して男子をもうけたという“隠し子疑惑”があるんです」(郷土史研究家)

 熈子の他にもオンナの影がちらついているのだ。「正室の他に側室がいたのは確実で、末っ子(男児)の母は、その側室。わざわざ自筆で義父へ手紙をしたため、“あなた様の武運にあやからせたい”と、末っ子への愛情をあふれさせています。たぶん、末っ子を生んだ側室の女性も慈しんだのでしょう」(跡部氏)

 その光秀は熈子と側室の間に11人の子をもうけたが、ほとんどが娘。しかし、その娘が大きな武器となる。「戦国時代、男児は跡取りとして必要ですが、逆にライバルでもあります。しかし、帰蝶がそうだったように娘は政略の道具として使えます。光秀は有力大名や信長の甥(信澄)に娘を嫁がせ、畿内で一大縁戚ネットワークを築きます。信長はその縁戚ネットワークを警戒。本能寺の変の直前にその一部を取り崩そうとした形跡があり、それが本能寺の変の伏線になったと考えています」(前同)

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