■特殊部隊に織田信長を襲わせた
光秀は、いつ信長への謀叛を決意したのか?
これまで、本能寺の変の3日前に光秀が詠んだ連歌の発句『ときは今 あめが下知る五月かな』に叛意が読み込まれていたとされてきた。とき(土岐一族)である光秀が、あめ(天)を下知る(治める)と詠めるからだ。
「しかし、叛意を決意した者がリスクを冒し、わざわざ宣言するはずはありません。同日付で光秀は山陰石見の福屋隆兼という武将に備前方面へ出陣すると伝えています。このときはまだ、信長の命令に従い、羽柴秀吉の加勢に向かうつもりだったんです」(同)
しかし、前日の夜、光秀は5人の重臣に「信長を討つ」と伝えており、それまでに謀叛を決意したとみられる。光秀はギリギリまで悩んでいたのだ。
「明智軍の先鋒に属した武士のメモによると、討ち入ったとき本能寺は静まり返っていたが、御殿のほうから伝令が来たとあります。つまり、明智軍には先鋒より早く、信長の寝所である本能寺御殿をピンポイントで急襲した部隊があったんです。それが、南蛮人宣教師が書き留めた“特別な任務を帯びた者”だったんでしょう」(同)
いわば、特殊部隊に信長を襲わせたのだ。
では最後に、光秀と同じ策士だった幕末の志士とのつながりを紹介しよう。「出戻っていた光秀の長女の再婚相手である光秀の重臣が、ひそかに土佐(高知)へ渡り、その子孫が幕末の英雄である龍馬を輩出する坂本家になったというんです」(資料館学芸員)
これまでに紹介した豆知識があれば、ドラマを30倍楽しめるはず!